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香港・新界地区南東部の新興住宅街の外れに、かつて中国への批判的な報道で知られた大手紙、蘋果(リンゴ)日報の本社ビルが残っている。
昨年のクリスマスに訪れると、正門には鎖がかけられていた。黄色い小さなリボンが1つ、踏みつけられて、地面にへばりついている。苦境に立たされた蘋果日報への連帯の意を示そうと、市民が門などにたくさん付けていたものだ。
700人を超す記者らが働いていたビルにはもう誰もいない。美味なローストグースで知られた食堂からも物音ひとつ聞こえてこない。寒々としたその光景は、葬り去られた〝自由〟の墓場のようでもあった。
「がんばれ!」「俺たちが支えるぞ!」
雨が降りしきる中、市民数百人がこのビルの前に集まり、声援を送ったのは半年余り前の昨年6月23日夜のこと。幹部が逮捕され、資産も凍結されて行き詰まった蘋果日報が、24日付の朝刊を最後に発行停止を決めた直後である。
こうこうと明かりがともった社内では、最後の編集作業が行われていた。
「きょう、蘋果日報は最終章を記し、香港に別れを告げる」で始まる1面の記事を書いたのが、陳珏明(ちん・かくめい、40)。蘋果日報のエース記者だった。
深夜、隣接する印刷工場で輪転機が回っているころ、陳ら社員たちはビルの外に出て、集まった市民に頭を下げた。「26年間、ご支援ありがとうございました。もうすぐ、最後の新聞を配ります…」
陳はそのとき、感情を抑えきれなくなった。自分たちは何も悪いことをしていない。胸を張ればいい。でも、蘋果日報はこれで消滅する。読点ではなく句点が打たれたんだ、と思った。
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本当に苦しいのはそれからだった。最後の給料も、退職手当も支給されなかった。何とか民主派系ネットメディアの「立場新聞」でニュースを解説する仕事を得た。給料は9割以上減った。貯金を取り崩して、妻と幼い子供を養っている。
陳によると、政権転覆行為などを取り締まる香港国家安全維持法(国安法)が施行された2020年6月30日以降、蘋果日報でも他紙同様、政治的に敏感な記事は、誰が書いたか特定されないように記者名を省くようになっていた。
街頭取材では、仮面をかぶった市民たちの「心の中の声」を聞き出すことが難しくなった。外国の要人と会うのにもリスクを伴う。つまり、正常な取材ができなくなっていたのである。
蘋果日報の休刊後、同僚記者たちは散り散りになったが、他社に移って記者を続けているのはわずかだ。
陳は先日、あるレストランで家族と食事をした際、かつての仲間がウエーターとして働いているのを目の当たりにした。優秀な先輩記者だった。
異業種でも転職できればまだいい。大半が今なお失業中だという。
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陳の人生を狂わせた国安法が施行された翌日、20年7月1日のことである。同日、国安法に反対する多くの市民が逮捕された。陳は取材して蘋果日報に記事を書き、深夜、帰宅した。
「香港は一体どうなってしまうのだろう」
頭を抱えたそのとき、机の上に、妻からのメモが置いてあるのに気付いた。
「あなた、パパになるわよ-」。寝室に飛び込むと、彼女は起きていた。
手を取り合った。こんな時代に生まれて、ちゃんと成長できるのだろうか。でも、うれしくないわけがない。2人でただ祈った。
陳はそのとき、1年もたたないうちに蘋果日報がつぶれるとは想像だにしていない。ましてや、再就職先の立場新聞もたった半年で運営停止に追い込まれ、2度目の失業を味わうことになろうとは。
「息子には『パパは誇りを持って仕事をしたんだ』と分かってもらいたい」
21年6月24日朝。人口750万人の香港で、市民が競うように買い求めた最後の蘋果日報は100万部。失われた〝香港の自由〟の象徴となったその日の新聞は、海を渡り日本をはじめ外国にも届けられた。
「香港人、雨中のつらい別れ」との見出しが躍る1面の記事には、「陳珏明」の名前がはっきりと刻まれている。=敬称略
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国安法施行後、「一国二制度」が崩壊した香港で、中国共産党が「愛国者による香港統治」を掲げて改造を進めている。香港人たちの証言を基に、その実態を追う。
筆者:藤本欣也(産経新聞)
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【告知】2月1日JAPAN Forward 時事講座<第9回>「どうなる香港の未来~北京冬季五輪開幕直前に中国との付き合い方を考える」 「ボーン・上田賞」記者、藤本欣也氏登壇
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2022年1月12日付産経新聞【香港改造】(全5回)を転載しています