~~
※以下の「ゴジラ -1.0」の映画レビューは、2023年11月30日にJAPAN Forwardに掲載された英文記事を翻訳したものです。「ゴジラ -1.0」は2024年3月10日に、米アカデミー賞の「視覚効果(VFX)賞」を受賞しました。
◇
映画の設定は1947年の日本で、ゴジラは東京で暴れまくり、電車の車両をキャンディーのごとく噛み砕く。当時の日本は連合国の占領下にあったが、マッカーサー元帥はソ連(当時)との軍事対立を引き起こすことを恐れて米軍の介入を拒否した。
この年にはまだ自衛隊(1954年創設)もなく、日本はゴジラに対してなすすべもなかった。1945年、46年が敗戦からの出発点「ゼロ・ポイント」とすれば、ゴジラの出現は追い討ちをかけるような“負”の「マイナス」の最悪の事態だった。
「戦争はまだ終わっていない」主人公の敷島浩一がつぶやく。彼は決して勇敢な主人公ではなかった。それは2年前に遡る。 “神風特攻隊”として名誉の死を遂げる運命だった彼は命令に背き、機体の故障を理由に“大戸島(架空の島)守備隊飛行基地”に逃げ延びた。 しかし、これが間違いだった。なぜなら、70年前のゴジラ初作でも、この小笠原諸島こそ、怪獣の生息地だったのだ。
後悔からの立ち直り
敷島は特攻を放棄し生き延びたが、さらに悪いことが起こる。島を襲ったゴジラを前に彼は恐怖のあまり、機関銃で攻撃できなかった。その結果、ゴジラによって守備隊はほぼ全滅してしまった。
時は1947年の東京に戻り、敷島は2年前の後悔に苛まれている。彼には、東京の焼け野原で生活を共にする素敵な女性 がいるが、彼女の期待にはなかなか応えられずにいる。
彼が求めているのは、立ち直りの機会だった。それは誰もが敗戦から必要としていることであり、ゴジラによって得られたのである。
オランダの著作家、イアン・ブルマは「ゴジラは政治的な怪獣である」と綴っている。シリーズの初作は1954年、ビキニ諸島で米国の水爆実験で被曝した日本のマグロ漁船、「第五福竜丸事件」の年に製作された。乗組員は全員被曝し、この事件は反戦および米国に対する反感を呼んだ。
時代を反映
1970年代初め、「水俣病」に象徴される公害問題が注目される頃には、“悪役”だったゴジラは“救世主”へと変わる。公害から生まれた怪獣「ヘドラ」と闘う。1971年公開の、坂野義光監督の作品「ゴジラ対ヘドラ」で、当時の世相を表す“ヒッピー”文化も出てくる。日本のゴジラシリーズでは、時代の懸念材料や期待材料を反映した作品が21世紀シリーズでも続く。
2016年公開の「シン・ゴジラ」(庵野秀明総監督、樋口真嗣監督)も、作品の5年前に起こった「東日本大震災」の「地震」「津波」「核のメルトダウン」という3大危機を彷彿させるものだ。
否認の代償
「シン・ゴジラ」では、総理大臣及び閣僚が、東京湾で謎の生物が起こす「渦潮」の重大事実を否認してしまう。しかし、そこにゴジラが出現し、事実は露呈する。これは、2011年の東日本大震災で、当時の首相と政府が福島原発の危機的状況を把握できずにいたところに、原発の建屋が水素爆発したのを見て未曾有の「メルトダウン」の危機が露呈したことに通じる。
映画では、総理大臣及び閣僚が乗るヘリコプターがゴジラによって撃墜されてしまう。国連は日本にゴジラを自力で倒すか、国連安全保障理事会に託して核攻撃をするかの究極の選択を迫る。
再生への戦い
「シン・ゴジラ」では、日本は弱く孤立した国として描かれている。能力に欠ける政治家が 不都合な現実を隠蔽しようとする。ゴジラのことを予言していた科学者・牧悟郎がいたが、無視されていた。彼は米エネルギー省にも勤めていたが、彼の発見は発表されることはなかった。放射能怪獣ゴジラの出現で、過去2回の被曝に加えて3度目の放射能危機に直面した日本。ここで若い官僚や科学者は危機打開のために奮い立つ。幸い、科学者・牧のノートが発見される。本人は自殺したと見られたが。牧の常識にそぐわない考え方こそ、この窮地を救う解決策に結びつく。
最終的に、日本は独自の力でこの危機を乗り切ることができる。ゴジラシリーズの中でも、現実の世界でも。それはゴジラのおかげで。
故・安倍元首相も称賛
興味深いのは、「シン・ゴジラ」が公開された時期に首相だった安倍晋三氏(故人)が本作品を高く評価していたことだ。 彼は特に、映画でゴジラと対峙し、主役でもある自衛隊の行動を冷静に描いた点を讃えている。一方で、自民党で安倍氏の長年のライバルでもある石破茂氏は冗談まじりに、映画での自衛隊の出動は憲法に反する、とクレイムをつけていた。
日本にとっての「ゴジラ」
「ゴジラ」が最悪の事態を意味するのであれば、このような問題が議論されるのもありだろう。日本の周りには、中国、ロシア、北朝鮮という核武装した3つの脅威=「ゴジラ」が存在する。この大・中・小のゴジラに対して、被害を受けるのは日本1国だけだ。
日本にとって、ロシアによるウクライナ侵攻は大きなショックだ。世界の仲裁機関、国連に対する妄想が消えうせた。自衛のために防衛費の予算増額の理由が成り立ち、日本の防衛産業にも明るい未来が見える。
こうした背景が、最新のゴジラ映画の根底にあるのだ。山崎貴監督は時代背景を1940年代としているが、現代の世界観も反映している。
「ゴジラ -1.0」でゴジラと戦う市民の大半は元軍人だが、上級士官ではない。彼らを率いるのは、海軍の軍帽を被った気さくで実用主義の元士官だ。独特の髪型でゴジラ退治の計画を練る科学者も、元海軍の兵器開発者。彼の提案は、戦争末期の日本海軍の試作戦闘機「震電」の起用だった。映画に出てくる架空の島「大戸島」とは違い、「震電」は日本の本土防衛のために実際に開発中だった実在の局地戦闘機である。
ゴジラと戦うために
映画では、日本の「帝国陸軍」について、敗戦の暗さなどは出てこない。ゴジラと戦う市民は、大戦の時のように国の犠牲となって戦うのではなく、未来のために戦う姿として描かれる。実際の大戦では多くの犠牲が伴った。戦闘機でも「脱出装置」が搭載されていないものもあった。
映画では逆に、リーダーは、ゴジラとの戦いを強要するのではなく、人々の意志に委ねている。軍隊経験のない志願者は、本人の強い意志で参加している。
「ゴジラ -1.0」でゴジラと戦う人々は、安倍元首相が「シン・ゴジラ」で絶賛したような現代の自衛隊とは全く違う。ゴジラと戦うとしたら、あなたならどんな武器が必要か?「震電」のような当時の最新兵器なのか。どんなリーダーが必要なのか?冷静かつ威厳ある堀田艦長なのか。強い意志を持つ人物だろう。
ゴジラと向き合って
山崎貴監督は、彼の作品のゴジラに小さいが重要な変化をつけた。ゴジラの持つ恐怖心を増幅するために、当時開発競争にあった核兵器と結びつけた。映画でゴジラが1947年に再び現れた時、ゴジラは核兵器実験の影響で一層大きく、パワーアップしていた。
むしろ、ゴジラは人類の持つ破壊的な性質の比喩として、永遠に失われないのかもしれない。日本がいよいよ、こうした身に迫る危機の現実を受け止めるように。
筆者:ピーター・タスカ(英国出身の投資コンサルタント、アーカス・リサーチ代表)