FILE PHOTO: The 100th founding anniversary of the Communist Party of China in Beijing

FILE PHOTO: Chinese President Xi Jinping and other leaders stand above a giant portrait of late Chinese chairman Mao Zedong as they arrive for the event marking the 100th founding anniversary of the Communist Party of China, on Tiananmen Square in Beijing, China July 1, 2021. REUTERS/Carlos Garcia Rawlins/File Photo

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一九四五年、敗戦国日本は武装を解かれ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」(前文)、戦力は「保持しない」(九条)という憲法が翌年公布された。以後、二大主張が対立し、今日に及んでいる。多数派は、占領軍の日本非武装化に賛成し、『朝日新聞』『公明新聞』『赤旗』など憲法護持である。

 

 

日本人の精神的武装解除

 

「平和憲法」の夢は美しい。この幻想にすがるのは、日本人の精神的武装解除を意図した占領政策に端を発するが、主権回復後もその呪縛がさらに続いたのは、その理想に憧れたからだ。平和は憲法のおかげのような報道もあった。

 

だが、そんな日本の安全神話は、国際情勢の険悪化により、シャボン玉のごとく破れた。自分も血を流そうとせぬ日本を、米国は本当に守るのか。そんな疑念がかすめたからである。

 

日本人は戦前は「絶対不敗」を確信し、戦後は「絶対平和」を盲目的に信仰したが、両者は同一コインの裏表なのだ。「平和憲法」の美名は、憲法批判を禁ずるタブーとなって私たちを呪縛した。国際関係の実相を見る目が曇り、思考停止が続いた。

 

だが、独裁者が核で恫喝(どうかつ)するに及んで、平和の幻想は破れた。ウクライナ侵攻で北欧人も日本人も、考えが変わる。近隣諸国の不義不正を警戒せねばならない。安保法制を容認、憲法改正を主張する『産経新聞』は、以前は新聞界での少数派だったが、そのオピニオンが今や主流になりつつある。ここで新聞にまつわる思い出をたどり、私が戦後体制の呪縛から脱皮した様をスケッチしたい。

 

東京大学名誉教授の平川祐弘氏

 

小学五年の頃から新聞を読んだ。陸海軍の戦果が知りたかったからで、今の子供が野球やサッカーの打数や打率や点数に一喜一憂するのと変わりない。獅子文六が本名の岩田豊雄で『朝日』に連載した真珠湾雷撃の勇士を扱った『海軍』など毎朝、待ち遠しかった。『読売報知』などが、「鬼畜●■(べいえい)」と獣偏をつけて印刷したときは、品のなさにいやな気がした。(●は獣偏に米、■は獣偏に英)

 

占領下で学生生活を送ったが、昭和二十年代末から仏独英伊に留学し、世界を見、各地の新聞を読むことで、私の世界観も変化した。人民民主主義より西側民主主義の方がいい。一九五九年、社会党の浅沼稲次郎が北京へ出かけ「米帝国主義は日中共同の敵」と言ったときは驚いた。私が帰国すると、周囲は安保反対の大合唱だ。「安保反対に反対。民主主義を守れ。議会の多数決に従え」などと私は言ったが、変人扱いである。大学は年中ストライキだ。助教授の私も当直したが、そこでも「平川はいつも妙な発言をする」と数学の助教授が腹を立てた。『朝日新聞』しか読まない同僚とは話が合わないことを私は自覚した。

 

 

触らぬ毛沢東にたたりなし

 

当時東大で『朝日』の売れっ子は菊地昌典で、文化大革命礼賛。それに対し、東外大助手となった中嶋嶺雄は、文革を毛沢東の権力闘争と見て、その分析を遠慮せずに発表した。私もたまに寄稿したが、本紙「直言」欄に、毛主席はドイツの詩人シュトルムを読んでいると東独の大使が驚いているが、それは訳者、郭沫若が旧制岡山高校に留学中、ドイツ語で『インメンゼー』を習ったからだ、と書いた。政治的直言はまだ控えていた。それでも『朝日』はやめ『産経』を購読した。

 

毛沢東が一九七六年九月に死んだ直後、昔のパリ留学仲間が集まった。中国大使館を弔問し、記帳してきた、と応用化学の本多健一東大教授が恭(うやうや)しく言うから、「江青女史がそろそろ逮捕される頃じゃないか」と私が冷やかした。外交官の加藤吉彌が「おい、ここは中華料理店だぞ。口を慎め」と言う。比較文化の同僚の芳賀徹は「あの中国一辺倒はなんだい」と『朝日』をこきおろす。するとドナルド・キーンは「私は日本の文化事情を追う立場ですから、文化欄は『朝日』です」と応じた。翌年、私はワシントンのウィルソン・センターへ赴任、日中国交再開に際し、初代中国大使を務めた小川平四郎氏とご一緒したが、「『産経』だけはどうも」と言われた。

 

 

擬似平和主義の自家中毒

 

北京に特派員を置くことを拒否された『産経』が正しかったか、中国御用の記事を日本へ送り続ける特派員を北京に駐在させた『朝日』が賢かったか。『朝日』退社後、中国の日本向け広報誌『人民中国』の編集者に天下りした北京特派員もいたが、風上に置けない。

 

加藤周一は、日本はかつて中国に対して侵略戦争をした前科があるから中国批判は一切しない、という一見「良心的な」立場をとり、『朝日』で重用された。社側も「知的巨人」加藤の発言を尊重した。だが振り返ると『朝日』が信用を失ったのは、慰安婦問題の吉田清治の詐話事件だけではない。そんな擬似平和主義の自家中毒に世間がうんざりしたからだ。「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」というふざけた記事が同社の雑誌に出てから、はや半世紀が経った。(ひらかわ すけひろ)

 

筆者:平川祐弘(東京大学名誉教授)

 

 

2022年6月17日付産経新聞【正論】を転載しています

 

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