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先日訪ねた築150年を超える京町家の台所に、変わらずそのお札があった。
「火用心」
京都の町なかで一般的なのは、火伏せの神で知られる愛宕神社のお札「火迺要慎(ひのようじん)」だ。ところがここ、重要文化財の杉本家住宅(京都市下京区)は自家製で、裏に「元治二年」(1865年)とある版木で刷った和紙を掲げるのが習わしである。
この年号にピンときた人は幕末の歴史通だろう。同住宅は蛤御門の変による大火(元治元年)で焼失し、明治3(1870)年に再建された。つまり版木は火事の翌年に作られ、以来、防火・防災を家訓の一つとしてきたのである。
火への恐れ
「私には、火事、地震、台風を殊更におそれるわけがある」(『火用心』から)と書いたのは、仏文学者で第9代当主だった先代の杉本秀太郎さん(1931~2015年)だ。エッセイストでもあり、京都に暮らす日々をつづった『洛中生息』は名随筆で知られる。
もちろん、その「わけ」とは当然ながらこの家にある。建物と生活文化という文化財を守り伝える宿命を背負ってきたからだ。京都の住宅は間口が狭く「ウナギの寝床」といわれるが、同家は間口約30メートルという市内最大規模の京町家である。
先日、明治の再建以来初めてという屋根の全面ふき替え工事を終えて記者発表が行われた。走り庭と呼ばれる土間の台所には今も古めかしい「おくどさん」(かまど)があり、その上に、辺りを見渡すように「火用心」の札がはられている。見上げつつ、明治、大正、昭和、平成、そして令和と無事に受け継がれてきた歴史を思った。
意外な歴史
一方で杉本さんがこう続けているのが面白い。
「京都は大火事の少ない都であった」というのである。確かに江戸に比べれば、人口や規模は違うが大火災は少なかったといえるかもしれない。
例えば、古くは平安末期の安元の大火(1177年)以降、有名な応仁の乱(1467年)まで、街を焼き尽くすような大きな火災はみられない。その間、源平合戦などの危機はあったにもかかわらず、である。そして『火用心』にこうつづる。
<後白河法皇は何よりも火をおそれた人であった。京の都が兵火の餌食となる事態を避けるために、この法皇は万全の策を講じた。木曽義仲が京から追い出され、次いでは源義経がおなじ憂き目を見たのは、火事の大きらいな法皇の深謀遠慮が効を奏したのであった(これは私の考えだが)>
なるほど。最高権力者であった法皇が戦禍を避けようと策をめぐらせたのではないか、というのである。これはいつの時代、どこの国にもいえることだろう。為政者の決断しだいでおおむね戦火は免れられる。
その後、都に大きな火災は起きた。宝永の大火(1708年)、御所や二条城も類焼した天明の大火(1788年)、そして冒頭の元治の大火である。長州藩が京都に出兵して起きた戦いがもとで、当時の上京、下京の大半を焼き、都の人々は「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などとも呼んだ。
もちろん、火災の原因は戦争に限らない。失火、放火もあれば、震災などの災害による火災もある。その恐ろしさはかつては阪神大震災、そしてついこの間も能登半島地震でわれわれは思い知らされたばかりだ。
民間の力こそ
ところで、文化庁が京都に移転して1年が過ぎた。地元では長官や職員が祭りや行事に参加している様子を見聞きすることが増えている。
先日、京都で開かれた文化審議会総会では、能登半島地震での文化財などの被害状況が報告された。被災地で指定を受けている国宝・重文の半数を超える57件を含め、約400件の文化財と125件の文化施設が被害を受けたという。
文化庁は緊急保全策や財政支援を講じる一方で、「文化財サポーターズ」事業を打ち出した。第1弾で震災の修理費用などをクラウドファンディング(CF)で募る。
実は杉本家の2億円を超える修復事業で、8割は国庫補助だが、残りはCFによる寄付などが大きな力となったと聞いた。今や一般の多くの支援が文化を守る時代である。
災害の多い国だからこそ、寄り添う人の心が力になる。それもまたこの国の文化力だろう。
筆者:山上直子(産経新聞)
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2024年3月31日付産経新聞【日曜に書く】を転載しています