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「私の百年の人生をかけて言います。誰が何と言おうと私は日本人です」-。日本統治下の台湾で生まれ育った台湾人の楊馥成(よう・ふくせい)さん(発言当時、99)。戦後に喪失したとされる日本国籍が自身にあることの確認を求めて司法の場で訴えてきたが、東京地裁は1月、過去の最高裁判例を踏襲し、請求を退けた。2月に百寿を迎えたが「台湾人が日本に対しどういう気持ちを持っていたか、訴訟を通じて知ってほしい」と、法廷闘争を続ける覚悟だ。
軍属経歴で投獄も
楊さんは大正11年、旧台南州で日本国籍を持つ両親の間に生まれた。日本名は大井満。日本語を主とした初等教育を受け、台湾代表として野球部が甲子園に出場、準優勝したことでも知られる州立嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)に進んだ。
卒業後に州の農林課に就職したが、昭和18年に旧日本軍の「軍属募集」の新聞広告を見て応募、約20倍の狭き門を突破し合格。第7方面軍の補給部隊に配属され、シンガポールでの食糧確保の任などに当たった。
戦後は台湾へ復員し、農林技士や新聞記者として活動したが、当時の台湾では中国大陸から移ってきた蔣介石の国民党政権が、日本統治下で教育を受けた知識人らを標的に「白色テロ」と呼ばれる政治的弾圧を展開。楊さんも日本軍属の経歴などから「異端分子」の嫌疑をかけられ、約7年間にわたり投獄された。
解放後も政治犯として当局の監視下に置かれたが、アスパラガスやマッシュルームなど新たな農産物の栽培の指導に従事し、農村の復興に尽力した。台湾に招聘(しょうへい)された日本人研究者の助手として肥料や堆肥の研究に打ち込んだ後、当時の台湾の国禁を冒して中国大陸に渡り、各地の農民に先進的な農法を指導。四半世紀にわたって中国の農業の近代化に貢献した。
「日本人として生まれて日本人としての教育を受け、日本の存亡をかけた戦争を命がけで戦った」という楊さん。「大陸で農業の指導に従事していたときも、自分が日本人だということを片時も忘れたことはなかった」と歴史に翻弄された半生を振り返る。
判例見直し求め
日本人であることに誇りを持つ楊さんのような台湾人は、なぜその意思に反して日本国籍を失うことになったのか。
もともと台湾人とその子孫が日本国籍を保有することになった契機は、明治28年の日清講和条約の調印で清国から日本に台湾が割譲されたことだった。ところが先の大戦後の昭和27年、サンフランシスコ平和条約の発効により、日本は台湾や朝鮮などの「外地」に対する領土権を放棄した。
37年12月の最高裁判例では、27年の日本と中華民国(台湾)との間の日華平和条約発効により、台湾系日本人が日本国籍を喪失したとしている。今回の訴訟では、楊さんら台湾人男性3人がこうした過去の最高裁判例の見直しを求めた。
訴状では、日華平和条約では台湾の主権がどこに移ったかは明らかにされておらず、領土権の放棄とともに対人主権(国が国民に対して持つ権能)も放棄したのであれば、無国籍者を創出することになると批判。本人の同意がないまま国籍を剥奪されるのは、世界人権宣言に反して違憲だ-などと主張した。
だが、1月11日の東京地裁判決は「領土の変更に伴う国籍の変動は条約で定められるのが通例」とし、台湾人は日本本土に住む「内地人」とは、法令の適用や戸籍の面などで明確に区別されていたと指摘。領土権の放棄に伴い国籍を喪失することが条約の「合理的な解釈」であり、本人の同意がない国籍剥奪も「憲法自体が認めている」とした。
楊さんらは判決を不服として控訴する意向だ。判決後の会見で楊さんは「日本は北方領土だけでなく、南方領土にも関心を寄せるべきだ」と日本人の台湾問題への関心の低さを憂い、「いつの間にか国籍が無くなって『棄民』となり、蔣介石の軍隊からどれだけいじめられてきたか。台湾の歴史をもっと勉強してください」と訴えた。
筆者:村嶋和樹(産経新聞)