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車いすテニスの第一人者として長く活躍した国枝慎吾さんに、国民栄誉賞が授与された。パラスポーツ界では初めての受賞である。
四大大会での優勝は、シングルスが28度、ダブルスを合わせれば50度を数える。パラリンピックでは計4個の金メダルを手にした。
「俺は最強だ」と自身を奮い立たせ、一昨年の東京パラリンピックを制した際の男泣きは、いまも忘れ難い。
記録と記憶に残る国民的英雄の受賞を、心から祝福したい。
9歳のとき脊髄腫瘍が原因で車いす生活となり、小学6年でテニスを始めた国枝さんは、「車いすでテニスをやって偉いね」という周囲からの言葉に強い違和感を抱いてきた。
「目が悪ければ眼鏡をかける。僕は足が悪いから車いすでスポーツをする。特別なことではない、とずっと思っていた」
2月の引退会見で、こう語ったのが印象深い。
現役時代、プレーを通して「人間の無限の可能性を感じてほしい」と語る一方で、車いすテニスを「スポーツとして見てほしい」とも願っていた。
2004年アテネ・パラリンピックのダブルスで頂点に立ったとき、快挙を報じた新聞の多くは、スポーツ面よりも社会面で大きく取り上げた。当時は「まだスポーツとして扱われず、福祉として社会的な意義があるものとして伝わっていた」と国枝さんはいう。
孤高の歩みは、車いすテニスを「スポーツ」として認めさせるための闘いでもあった。
進退自在のチェアワークとバックハンドからの強い打球は、他の競技者に求められる技術の水準を一気に引き上げ、車いすテニスは「スポーツ」としてファンの批評を受けるようにもなった。09年には異例のプロ転向を果たし、パラアスリートの社会的な地位を向上させたことも大きな功績である。その背中は後進の夢であり、希望となったに違いない。
「多様性」という言葉が日常的に人々の口にのぼる。障害の有無にかかわりなく、一人一人が互いの個性を認め合い、「無限の可能性」を引き出す。そんな世の中になれば理想的だ。
国枝さんが闘い続けてきたものにも思いをはせ、社会のあり方を考える機会としたい。
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2023年3月18日付産経新聞【主張】を転載しています