外務省は12月23日、1987年から90年までの外交文書26冊(約1万600ページ)を一般公開した。中国当局が民主化を求める学生らを武力鎮圧した89年6月4日の天安門事件に関する文書によると、日本政府は事件当日に「長期的、大局的観点から得策でない」として、欧米諸国と共同の中国への制裁に反対する方針を明記した文書を作成していた。
中国が孤立化して排外主義を強めることやソ連への接近を懸念したためだが、日本の対応は中国の国際包囲網突破に力を貸し、結果として今も香港などでの人権弾圧や拡張主義はやまないままとなっている。
事件当日の89年6月4日の文書「中国情勢に対する我が国の立場(主として西側向け)」によると、事件について「人道的見地から容認できない」としつつ、「我々とは政治社会体制及び価値観を異にする中国の国内問題。対中非難にも限界」と指摘。西側諸国が「制裁措置等を共同して採ることには日本は反対」との方針を明記した。
「国内問題」は今でも中国政府が人権侵害を正当化する際の常套(じょうとう)句で、当時の日本政府の人権意識がうかがえる内容だ。
人権や民主化を重視する欧米諸国には制裁を求める声が根強く、7月中旬のフランスでの先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)では中国を非難する宣言が採択された。ただ、共同制裁は見送られる。
宇野宗佑首相は7月6日、サミットの説明に訪れた外務省幹部に「中国を国際的孤立に追いやるのは不適当」と発言。宣言に関し「EC(欧州共同体)・米と日本は違う。これが文章や表現上、にじみ出るようにしたい」と述べていた。
6月22日の極秘扱いの文書には「サミットまでは『模様ながめ』の姿勢をとり、中国が改革開放路線を維持していくことを確認の上、徐々に関係を正常化していく」との政府方針が記されている。
日本は事件直後、中国全土への渡航自粛勧告や、円借款の凍結などの対中制裁に踏み切る。ただ、サミット後の8月には渡航自粛勧告を北京を除いて解除し、9月には超党派議員連盟が訪中するなど、制裁解除で先行していく。宇野氏の後任の海部俊樹首相は90年7月に円借款再開を表明し、91年には中国を訪問。92年に天皇、皇后両陛下も訪中された。
日本政府の中国寄りの姿勢の背後には、改革・開放政策が「中国の対外政策の穏健化」をもたらし、「長期的には、中国を政治的にもより自由で開放的な国家に変えていく」との認識があったことが外交文書から読み取れる。ただ、現実は改革・開放政策のかたわら、共産党独裁の下での軍備拡張や強国化が進んだ。