~~
作家の井上靖は、新聞社の特派員として1960年のローマ五輪を取材した。その足で欧州各地を旅し、パリで20代の青年と出会う。青年はこう打ち明けた。指揮者の国際コンクールで優勝したが、このままでは食べていけない。
日本の楽団から誘われているので、帰国しようかと…。弱気に傾いていく話を、井上は遮った。自分の書いた小説が海外で読まれるのは、翻訳家がいるからだ。音楽は違う。「どこの国に行っても通訳なしで、じかにお客が聴いてくれるじゃないか」。世界で勝負しなさい、と。
先日亡くなった指揮者、小澤征爾さんの懐旧譚(たん)である(『小澤征爾 指揮者を語る』PHP研究所)。迷える音楽家に道を示したのが、指揮棒でなく文豪のペンだったという不思議。弱気を恥じた青年はその後、自らの腕で活躍の場を広げていく。
◇
2024年2月12日付産経新聞【産経抄】より