1894(明治27)年に始まった日清戦争で日本が勝利を収めた95年、山口県下関の料亭で4月17日、清国(現在の中国)と「下関条約」に調印してから、125年になる。
日本はこの条約で台湾の割譲を受け、1945(昭和20)年の終戦まで50年にわたり領有した。台湾は日本にとって、欧米列強より何世紀も遅れて獲得した初めての海外領土。欧米はこれをどう見ていたのか。
拓殖大の渡辺利夫学事顧問(前総長)が、その一端を近著、「台湾を築いた明治の日本人」(産経新聞出版)で紹介した。1904(明治37)年9月、英紙タイムズと米紙ニューヨーク・タイムズが掲載したロンドン発の同一記事だ。「日本人によって劇的な変化を遂げたフォルモサ(台湾)という島」との見出しが躍る。
記者の署名は見あたらないものの、渡辺氏は「みごとな英文と充実した内容からして、辣腕(らつわん)の特派員による記事」と考えている。日本の統治開始から、10年もたたない時期の報道だ。
記事は、「誰もが成しえなかったことを数年で達成した驚くべき成果」「他の植民地国家(欧米列強)への一つの教訓」と見出しが続く。渡辺氏は、「日本は当時なお、世界の三流国ではあったが、欧米の一流紙は(台湾の変化に)たまげたのでしょう」と話す。
焦点が当てられていたのは「台湾住民を重視した寛容な法治」や「学校教育の制度の導入」、さらに「鉄道網や銀行・通貨」といった近代化政策だった。その結果、「衝撃的な経済成長で住民は繁栄を享受し、人口も急増した」という。
記事は、日本統治以前の台湾で、「スペインやオランダが植民地化に乗り出したが失敗に終わった」ことや、「(領有する軍事力など)十分な力があった英仏も島の中には足を踏み入れなかった」と指摘した。
下関条約に調印した清国全権の李鴻章(り・こうしょう)が、「台湾がとてつもなく劣悪な島であることに日本はすぐに気づくことになろう、とうそぶいていた」とも書いた。
欧米列強は強靱(きょうじん)な住民の抵抗に手を焼き、清国は台湾を「化外(けがい)の地」とまで見下して、放任していた。
ではなぜ日本が「驚くべき成果」を台湾であげたのか。記事は「アヘン吸引者の減少」を例に引いた。
英国は麻薬であるアヘンを清国に輸出し、人々をアヘン漬けにした上、巨額の利益を得た。反発した清国側とアヘン戦争(1840~42年)も引き起こした。
一方で日本は、アヘンが台湾の発展を阻害すると考え、記事は「人々の慣行を可能な限り尊重し、文明化の方向に寛容に導いた」と分析した。「専売制を敷いて許可を受けた吸引者にのみアヘンを売り、収益は全額をアヘン根絶政策にあてた」という。強権で封じ込める策はとらなかった。
欧米人には思いもつかぬ寛容な対応を、記事は「一つの教訓」と公平に評価した。欧米列強の植民地政策への反省とも読める。これが欧米の見方のすべてではないにせよ、日本の国家近代化の過程における歴史の断面として、記憶されるべき見解ではなかろうか。
渡辺氏に植民地支配を美化する意図はないが、「欧米列強の支配下に置かれた往時の植民地に比べ、台湾は圧倒的な成功例。海外領土の現地財政を10年で黒字化させたのも歴史上、日本の台湾統治だけだった」とみている。
筆者:河崎真澄(産経新聞論説委員)
◇
2020年4月14日付産経新聞【一筆多論】を転載しています