洋の東西で神話の時代から数千年以上にわたる歴史を持つ酒造の世界に新たな時代が到来している。
酒の原料は果物や穀物、根菜類から家畜の乳にまでわたる。しかし、樹木だけは全くの対象外だった。
木材の細胞壁にもアルコール発酵の原料となるブドウ糖が詰まっているのだが、木質化した細胞壁の堅さに阻まれて、酒造には未利用のままだった。
その木材の壁が人類史上初めて森林総合研究所(茨城県つくば市)の研究陣によって突破されたのだ。
研究室では香気が漂う杉の木酒や桜木酒など数種類の樹木酒の試験醸造が進んでいる。メーカーによる商品化の日も近い。
木の香り蒸留酒
開発に当たった研究者の野尻昌信さんと大塚祐一郎さんから説明を受けた。野尻さんは森林総研の森林資源化学研究領域チーム長、大塚さんは同領域の主任研究員。
取材の冒頭で木酒の香りをかがせていただいた。
杉酒は針葉樹の雰囲気。桜酒は桜餅を思わせる。白樺(しらかば)酒には甘さを感じ、ミズナラ酒からはスモーキーな香りが伝わる。それぞれの個性を持っている。
いずれの木酒もアルコール濃度約20%の蒸留酒で無色透明。蒸留前の原酒(発酵液)は赤や黄などの色に染まっている。見た目はおいしそうだが、雑味が混じっているそうだ。
「蒸留によって磨かれたように木の酒の長所が際立ってくるのです」と野尻さんと大塚さんは語る。
酒造史上の革命
世界初の木の酒だが、燃料用アルコールなら既に木材から生産されている。20年ほど前のバイオエタノールブームの際に、木材は非食物系の原料として注目された歴史を持つ。
しかし、細胞壁を破壊する工程で硫酸や高温を用いるなどしていたので有害物が含まれ、飲用にはならなかったのだ。
木材から酒を造るには、マイルドな方法で細胞壁をほぐして、アルコール発酵の原料となるブドウ糖が鎖状につながったセルロースをむき出しにしなければならない。
森林総研の研究チームは直径2ミリのセラミック球を利用した。機械で粉砕した木の粉に水を加え、そこに多数のセラミック球を投入して攪拌(かくはん)を続けると木材は直径0・001ミリの超微粒子になっていく。
この超微粒子液にセルロースを分解する酵素を加えると、セルロースの鎖は分断されて個々のブドウ糖の集まりに変わる。
これに酵母を働かせるとアルコール発酵が始まり、原酒ができる。それを蒸留すると樹種固有の香りと味わいを含みながら石清水のように清澄な木酒が誕生するという次第だ。
杉酒では1キロの乾燥材からアルコール濃度約30%の蒸留酒300ミリリットルが得られるまでに歩留まりも上がっている。
山村の経済振興
取材中に夢想が広がる。桜吹雪を眺めつつ生粋の桜酒が楽しめる。西行法師が知れば喜びそうだ。アルコールも味覚もともに梅由来のピュア梅酒もできる。
時代を経た古材でも木酒の原料となるので歴史の星霜にほろ酔える。
果肉や樹液ではなく、木材の堅い細胞壁に蓄えられたセルロースからアルコールを造る技術の獲得は、酒造史上の革命だ。
森林は世界各地の風土や文化と深く関わる。カナダでは、この技術から楓(かえで)酒が生まれるだろう。欧州の黒い森からはどんな酒が分泌されることだろう。熱帯雨林の酒は密林酒か。想像するだけで楽しいが、国内では間伐材に新たな用途が生まれ、森林保全に貢献するはずだ。
「地元産の木酒の生産、販売を通じて山村の雇用創出や経済振興に役立ててもらいたい」。野尻さんら研究チームの願いである。
「木材の持つ多様な価値を酒という形でも表現してみよう」という進取性に根差す応用研究なのだ。
木材を酒に変える研究は試験製造の免許を国税庁から得て平成29年秋から始まった。今年3月まで森林総研の理事長を務めた沢田治雄さんが「やってみたら」と声をかけてくれたことが開発のきっかけだった。
酒造会社が意欲
青竹で燗(かん)をつけると風情も増す。ならば竹酒はどうだろう。放置竹林の問題解決にも役立つだろう。「パンダ酒」という名前も思いついたところで野尻さんに尋ねると即座に却下されてしまった。竹の香りは成長段階で変化する上に、タケノコの匂いが出やすいので不向きだそうだ。
白樺の場合は逆で木材の香りは優れていないが、酒になると甘い香りに変わる。木の酒の世界は、森のように深い。現在、進めている杉酒の安全性試験は今年度中に完了予定。すでに複数の酒造会社が木酒に関心を示しているという。研究チームは付加価値の高い森の高級酒の開発を目指す。
酒神・バッカスの喝采が聞こえて来る。
筆者:長辻象平(産経新聞)
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2020年7月15日付産経新聞【ソロモンの頭巾】を転載しています