Japan Baseball legend Sadaharu Oh 004

Baseball legend Sadaharu Oh

 

王貞治は、かつて彼の成し遂げた業績のひとつ、本塁打数で、世界のプロ野球史上、他のプレイヤーの誰をも凌駕した。

 

これにより、米ニューヨーク州クーパーズタウンにある野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)は、その殿堂入り要件を大幅に見直すべきか否かが、長く懸案となっている。1936年に設立されたこの「殿堂」は、野球史の関連資料の収集・公開を行い、殿堂入りに選ばれている人物は現在、333名。

 

今年5月20日に80歳の誕生日を迎えた王は、彼の存命中にアメリカ野球殿堂で栄誉を受けるに値する。彼が現役中に記録した868本というホームランの数がその理由である。王以外の日本プロ野球(NPB)のレジェンドらも、存命・他界の区別なく、クーパーズタウンでの永久展示の一部にされるべきだと思う。これについて、NPBと日本の「野球殿堂」に、ニューヨークのこのランドマーク的施設に名を連ねるに相応しい10~20名ほどをリストアップするよう、要請してみてはどうか。それは、正しい方向への一歩になるだろう。)

 

ラテンアメリカ出身の野球史の偉人ら(特に知られた例には、ロベルト・クレメンテ、フアン・マリシャル、ルイス・アパルシオ、オーランド・セペタ、ロッド・カルー、ペドロ・マルティネスなどがいる)は、「殿堂」のコレクションの広さと奥行きを豊かなものにしている。このことは、かつて〔1950年代頃に消滅した〕ニグロ・リーグ(黒人リーグ)に雇われ、殿堂入りしたプレイヤー、コーチ、監督、及びその他の人物(サチェル・ペイジ、ジョシュ・ギブソン、モンテ・アーヴィン、クール・パパ・ベルを含む)にも当てはまる。

 

クーパーズタウンの聖地は今や、世界最大の(そして最善の)野球殿堂として、その広がりを拡大しながら、北米野球で足跡を残した人物と並んで、アジア出身の達人らの一部にも光を当てるまたとない機会に恵まれている。

 

1995年の野茂英雄の大リーグデビュー以来、日本人プレイヤーは大リーグに連綿と、かつ不滅の足跡を残している。

 

しかし、次のことを忘れてはならない:王は、ロサンゼルス・ドジャーズでの「ザ・トルネード」の最初のシーズンより数十年早く、日本の強力な「巨人」にとって長い年月、同チームのラインナップを奮い立たせる存在だった。王は彼の22シーズンにわたる読売ジャイアンツでの活躍を通じ、若い世代のプレイヤーが偉大さを極める道を切り拓いた。

 

正式名が「アメリカ野球殿堂博物館」(National Baseball Hall of Fame and Museum) は、そのウェブサイトにおいて自らを、「われわれのコレクションを全世界の野球ファンに向けて収集、保存し、かつ解釈を施し、わが国の国民的娯楽=野球に顕著な貢献をした人たちの顕彰を通じ、野球の発展史と野球が我が国文化に与えた影響への評価の向上に献身する非営利の教育的機関」と謳っている。

 

野球は日本でも、国民的娯楽だ。したがって、日本プロ野球の偉人らを讃える手立てをNPB が持ちえない理由はありえない。そこでまず、ジャイアンツの背番号1を纏っていた偉大なスラッガーから始めよう。

 

 

 

偉大な野球大使

 

何世代にもわたる野球ファン、わけても熱狂的ファンは、最高のホームラン・キングが卓越したプレイヤーに違いない事実を認める。そのプレーヤーはまた、野球への偉大な大使であることも。

 

王は1977年9月3日、後楽園球場で、ホーム球場を同じく東京に置くライバル・チーム、ヤクルト・スワローズとのゲーム第3イニングで、自身の756号キャリア本塁打を放ち、大リーグのスラッガー、〔ハマリン〕ハンク・アーロンのプロ野球記録を破った。左打ちのスラッガーである王は、スリーボール・ツーストライクで右翼スタンドに本塁打し、両腕を上げながら一塁ベースに歓喜の表情でダッシュした。(ここをクリックし、その歴史的偉業の動画を参照。)

 

それは、まさに喜びの時であり、王の現役選手生活での決定的瞬間のひとつだった。

 

アーロンはその夜、王に当てたビデオメッセージで、「彼は言うまでもなく本物の紳士であり、日本の国民の大きな誇りだから、私も彼の記録達成の現場にいて、彼の頭に冠をかぶせたかった」と語った。

 

1978年8月3日には、王はプロ野球史上初の―また、たった一人の―第800号本塁打を放つプレイヤーになった。彼はそれを後楽園球場での大洋ホエールズのリリーフ投手、大川浩から、第6イニングの初球を捉えて成し遂げた。そのボールは「靴を脱いで寛いで観ていた」宮良弘守(みやよし ひろもり)という34歳のファンの靴に入った」とAP通信が報じた。

 

王貞治のフラミンゴ打法はユニークであり、同時にチームの勝利に繋げる効果を持った。彼の22年間のキャリアで、ジャイアンツは11回のジャパンシリーズ優勝を勝ち取った。

 

2016年、アーロンは「勲四等旭日小綬章」をアトランタの日本国総領事、篠塚隆の自宅で行われた特別セレモニーで授与された。

 

アーロンの受賞は、彼と王との友情、そして1992年、「世界子供野球フェア」の共同設立者になり、今日までそれぞれがその名誉理事を務める、野球への互いのコミットメントのである。この組織は、毎年行われるベースボール・キャンプを通じて、世界の若者を結びつけている。

 

アーロンは自分が日本の特別な栄誉に浴したことを報じたAPの記事で、「25年間、われわれは若い子を支援するために、お互いで行き来している」と語った。「子供たちをホームランバッターにするのが目的ではなく、彼ら同士がペンパルになるのを目指している。そうすることで、彼らが手紙をやり取りし、お互いのコミュニケーションができるようになれば良いと思っている。日本の人たちは、この点で私への大きな助けになっており、その支援のすべてに感謝したい。」

 

アーロンの言葉に呼応するように、王は(自身がアトランタを訪れたことはないが)勲章をジャケットに着けたアーロン宛にビデオメッセージを送った。

 

「彼の叙勲は、私自身が叙勲を受ける以上にハッピーな気持ちですよ」と王は話した。

 

 

名だたる競争

 

1974年11月、アメリカのCBSテレビが2人のホームラン・ダービー競争を放映した際、アーロンと王は肩を並べることになった。このイベントは後楽園球場で行われ、アーロンにはメッツの投手コーチ、ジョー・ピグナトーノがハマリン・ハンクに、王に対してはジャイアンツコーチの峰国安(みね くにやす)が投球する形だった。

 

そのホームラン競争のルールでは、両者にフェアの5打球ずつ4ラウンド20球の投球の決まりで、そのほかにカットオフ(ファウルボール)は可とされた。

 

アーロンの10本に対し王は9本で、アーロンが競り勝った。そのメジャーリーグ大スターは対決のギャランティーとして5万ドルを、王は2万ドルを手にした。

 

その後報じられたホームラン対決の記事でアーロンは、「日本にやって来て、王との競争ができたのは幸運だった」と話した。

 

「だけど、それは私が王よりも優れたバッターであると必ずしも証明されたのじゃあない。実際のゲーム・コンディションではなかったし、打者を打ち取ろうとするピッチャー相手の勝負ではなかったのだから。」

 

東京生まれの王は、そのキャリア全体を通して、打席での偉大な集中力を示した。

 

数多くの記録達成

 

1980年、王の22年間に及ぶ読売ジャイアンツでのキャリアに終止符が打たれた時、多くの賛辞が彼に寄せられた。

 

賛辞の焦点は言うまでもなく、彼の統計記録だった。

 

つまり、王はセントラル・リーグのホームラン王を15回記録し、そのうち13回は連続シーズン記録(1962-74年)。セントラル・リーグの打点1位を13回獲得し、9回のMVP、そして5回の打率トップに輝いた。それに加え、彼のNPB でのキャリア打点(2,170)と四死球(2,390)は、今後破られそうにない。着実さの模範として、王は年間40本以上の本塁打を13回達成した。かつ、彼は卓越した守備の一塁手でもあった。

 

中国人の父と日本人の母の間に東京で生まれた王は、プロ野球のパフォーマンス水準を驚異的レベルにまで引き上げた。

 

その例のひとつ:王と同じく、野村克也は1980年に引退した。今年2月に死去した偉大なキャッチャーは、657本のキャリア本塁打を放ったが、その記録はトップには遠く及ばない。野村はNPB記録リストの2番目にとどまった。

 

 

仲間のスーパースター、「ミスター・ベースボール」の長嶋茂雄と並んで、王はジャイアンツの「V9王朝」(1965年~73年のジャパンシリーズ優勝)で中心的役割を果たした。王はジャパンシリーズに全部で14回出場し、その間ジャイアンツは1961年、63年を含め11回、NPB優勝した。王はピンチに強いことでも知られ、彼が出場した77回のジャパンシリーズのゲームで29本の本塁打を打った。

 

在日米軍の刊行物である「スターズ・アンド・ストライプス」によれば、三菱アマチュア野球チームのスポークスマンである佐藤克彦は1980年、王について、「彼は日本中の慈善団体との活動に熱心だ。それがまた、彼が人々から愛されるところになっている」と述べている。

 

同年、サンタ・アナ・オレンジ・カウンティ紙(カルフォルニア州)のフォレスト・キムラー記者は王の驚異的キャリアについて、王とべーブルースとのバッティング・スタイルの興味深い比較を交え、熱意を込めて記事を書いた。一方アーロンは1974年、それまでの「ホームラン帝王=べーブルース」のメジャーリーグ714本塁打記録を抜いていた。

 

「ルースと王のスィングの微妙さに十分注意を払わない人は、その日本人スラッガーのスタイリッシュではあるが特異の、コウノトリのようにグラウンドから優雅に前足を引く打法にだけ必要以上に関心を持つ。あるいは、打撃の瞬間、ゆったりと引くハンマーのように、バットをボールに当てるスタイルに。」

 

「ルースは脚を上げることはしなかったが、バットを持ち上げ、リストを解き放つ動作の優雅さは王と全く同じだ;王とルースのバッティングでの旋回軸、中心点は、半月形ののように欠けることなく、ストライクゾーンのボールを捉えるバットの振りを実現していた。」

 

キムラーは次いで、二人のパワー・ヒッティング・レジェンドへの究極の賛辞を贈った。

 

キムラーは王について1981年、「野球特選集」と題した連載で特集された記事で「野球での王貞治を見るのは、ルースを見るのと同じく、彼の出場のあらゆるゲームの入場券を購入する価値を持つものだった」と書いた。

 

 

彼が現役選手時代、並外れたプレイヤーであったのに加えて、王は福岡ダイエーホークス(現在のソフトバンク)を1999年と2003年、ジャパンシリーズの優勝に導いた。また、2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシックにおいては監督として、日本に優勝をもたらした。

 

更に、2008年に監督を辞して後、ホークス組織内の卓越性の基準の維持に寄与している。チーム会長として際立った地位にあり、王のホークスは常勝チームとして、2011年、2014年、2015年、2017年、2018年と2019年にジャパンシリーズ優勝を成し遂げている。

 

王貞治は、多数の勝利に彩られた勝者-野球のアイコンであり、世界のプロ野球界にこれまで出現したベスト20人の最も偉大なプレイヤーのひとりだ。

 

以上の詳細な理由から、彼はニューヨーク州のアメリカ野球殿堂入りをし、栄誉を讃えられるべきである。

 

筆者:エド・オウデブン (Ed Odeven)

 

 

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