沖縄本土復帰50周年記念式典でお言葉を述べられる天皇陛下
(宮内庁提供)
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和歌の草稿 にじむ思い 複雑な県民感情…調整難航
《思はざる病にかゝり沖縄のたびをやめけるくちおしきかな》
宮内庁の罫紙(けいし)に、昭和天皇の手書きで記された御製(ぎょせい)(和歌)の草稿。元側近が令和元年9月、学習院大史料館に寄贈したものだ。昭和62年、先の大戦後初めて沖縄の地を踏む予定だった昭和天皇は、体調悪化で訪問がかなわなかった思いを、歌に込めていた。
《思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを》
推敲(すいこう)の結果、当時公表された御製ではこう表現が変わったが、草稿の「くちおしきかな」の一節には、より率直な「苦渋」がにじんでいた。
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昭和天皇は昭和21~29年、先の大戦で焦土と化した各地で直接、国民を励ます「巡幸(じゅんこう)」を行い、米軍統治下にあった沖縄を除く46都道府県を回った。沖縄への訪問は47年5月の本土復帰以降、幾度も検討されたが、県民の4人に1人が死亡する凄惨(せいさん)な地上戦を経験し、戦後復興からも取り残された複雑な県民感情から、調整は難航した。
沖縄の本土復帰後最初の県知事となった屋良朝苗(やら・ちょうびょう)(故人)は、47年11月に沖縄で開催する記念植樹祭に、昭和天皇、香淳皇后の出席を要請すると表明。ところが、地元の反発で断念に追い込まれた。
昭和天皇が、早期の沖縄訪問を望んでいたことがうかがえる資料がある。
《天皇陛下から私はどうするのだアメリカに行く前に行けないかとの御下問があって困った》
屋良が残した日記などをまとめた「屋良朝苗日誌」(沖縄県公文書館所蔵)によると、50年4月、屋良は東京で面会した当時の宮内庁長官から、こう打ち明けられていた。
12年後。訪問がいよいよ現実味を帯びたのが、62年10月の国民体育大会だった。宮内庁による現地の事前調査も行われ、詳細な日程も決まった。
ただ、依然として現地の反対の声は根強かった。当時の沖縄県副知事、宮城宏光(89)によると、那覇空港からの沿道には「天皇来沖反対」の看板がいくつも立てられた。看板を撤去したほうがいいか、宮内庁に相談したが、返事は「そのままでいい」。昭和天皇は、ありのままの沖縄を見たいということか―。宮城はそう受け止めた。
しかし、訪問を目前に控えた同年9月、計画は別の理由で暗転する。体調を崩した昭和天皇は皇居の宮内庁病院に入院。沖縄訪問は中止となり、開会式には名代の上皇さまと上皇后さまが臨席された。
当時の侍従、中村賢二郎(88)は同年11月、昭和天皇から依頼を受け、用意した国体の録画映像を吹上御所で上映した。そのときの様子を「さまざまに去来する思いがおありだったかもしれないが、陛下は何も仰らず、じっと画面を見つめておられた」と振り返る。
昭和天皇は、その後も訪問への希望を持ち続けた。63年4月の記者会見でも「今日もその精神については何も変わっていません」と意欲を示した。しかし同年9月、吹上御所で吐血。闘病の末、沖縄訪問を果たせないまま64年1月に崩(ほう)御(ぎょ)した。
「尊い犠牲」心寄せ続け 上皇さま「天皇」で初のご訪問
「多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
沖縄の本土復帰から約3年がたった昭和50年7月17日夜。上皇后さまと初めて沖縄を訪問した上皇さまは初日の日程を終え、公表した談話をそう締めくくられた。日中、最初に訪れた南部戦跡の「ひめゆりの塔」(糸満市)で、過激派から火炎瓶を投げ付けられる事件があったばかりだった。
上皇さまのご進講役だった外間守善(ほかま・しゅぜん)(故人)は、自著で南部戦跡ご訪問などについて事前に相談を受けていたことを明かしている。《私が「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心してください」と申し上げたところ、殿下は静かに「何が起きても、受けます」とおっしゃった》(「回想80年 沖縄学への道」)。談話は、当時皇太子だった上皇さまが沖縄と向き合い続けていく「ご覚悟」の表れでもあった。
昭和天皇が成し遂げられなかった「天皇」としての沖縄訪問は、ご即位後の平成5年4月に実現する。上皇さまは沖縄に到着したその足で上皇后さまとともに糸満市に向かい、沖縄平和祈念堂で遺族代表らとご面会。約6分間にわたる異例のスピーチに臨まれた。
「戦争のために亡くなった多くの人々の死を無にすることなく、常に自国と世界の歴史を理解し、平和を念願し続けていきたい」
紙を持たず、遺族一人一人を見つめながら語りかけられる姿に、会場からはおえつが漏れた。
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遺族らはそれぞれ、複雑な思いを抱えていた。
先の大戦後期に沖縄を出港した学童疎開船が米潜水艦に撃沈され、約1500人が死亡した「対馬丸事件」で家族9人を失った高良政勝(たから・まさかつ)(81)は、皇室への負の感情を拭えずにいた。「上皇さまに罪はないが、昭和天皇が始めた戦争で多くの犠牲者が出た。戦後、沖縄が切り捨てられたという思いもあった」
ただ、上皇ご夫妻が沖縄ご訪問を重ね、上皇さまが対馬丸のことを歌に詠まれるなど、心を寄せていることを知り、「少しずつ心がほぐれていった」。
26年、ご夫妻は高良が運営団体の理事長を務める対馬丸記念館(那覇市)を訪問される。「長い間、ご心痛で過ごされましたね」。慰霊碑に供花したご夫妻は集まった生存者や遺族ら15人全員と言葉を交わし、別れ際にも再び、一人一人に声をかけられた。
「時の天皇に万歳をすることには、今でも抵抗がある。それでも上皇ご夫妻の心の優しさ、沖縄の遺族に向きあう真剣さが伝わってきた。犠牲者の魂もこれで救われる、と感じることができた」。高良は、そう振り返る。
上皇さまの沖縄ご訪問は計11回。苦難の歴史に寄り添われた思いは、次代に受け継がれる。
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天皇陛下は幼少期から沖縄慰霊の日(6月23日)にご夫妻とともに黙禱(もくとう)し、現在も皇后さま、長女の敬(としの)宮(みや)愛子さまとともに続けられている。陛下は昭和62年以降、これまでに5回、沖縄訪問を重ねられてきた。
代替わりを目前に控えた平成31年2月、高良は皇居で開かれた宮中茶会に招かれた際、人波をかき分け、陛下に声をかけたという。
「沖縄からです。次の天皇陛下にも、ぜひ、お越しいただきたい」
陛下は、穏やかに、うなずかれたように見えた。(敬称略)
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5月15日、沖縄県は本土復帰から50年を迎えた。天皇陛下は今年2月の記者会見で「沖縄がたどってきた道のりを今一度見つめ直し、沖縄の地と沖縄の皆さんに心を寄せていきたい」との決意を明かされた。皇室はこれまで、沖縄とどう関わってきたのか。これからどう向き合っていくのか。関係者の言葉や資料からひもとき、探った。