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A swimming whale. (© Institute of Cetacean Research)

シロナガスクジラ=南極海 (日本鯨類研究所提供)

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はじめに

 

2019年6月 30日、日本は国際捕鯨委員会(IWC)か ら脱退し、その領海と排他的経済水域内で商業捕鯨を再開した。その前後には、日本の捕鯨に関する国際的な反応や報道も活発に行われたが、約3年 を経た今、捕鯨をめぐる国際的議論は極めて低調であり、世界は捕鯨問題に関する関心を失ったようにも見える。2019年暮れから始まった世界的な新型コロナウイルス禍や気候変動問題に関心が移ったことや、コロナ禍のために、IWCを含む各種国際会議が延期されたり、バーチャル化されたりしたことも一因であろう。

 

しかし、捕鯨問題が象徴する生物資源の持続可能な利用の原則と環境保護の間の緊張関係や、その背景にある異なる文化の間の自然観や世界観の相違などの問題は消滅したわけではなく、むしろ近年は気候変動への対応や生物多様性の保全をめぐってさらに顕在化している。

 

本稿では、捕鯨問題の背景を改めて考察し、持続可能な利用と環境保護の関係、人間と自然に関する世界観などについて筆者の私見を述べてみたい。

 

森下丈二教授

 

捕鯨問題は環境問題か?

 

捕鯨問題はしばしば「環境保護の象徴」と捉えられ、捕鯨を行うことは環境や海洋生態系の破壊であるというイメージが喧伝されているが、資源量が豊富な鯨種をその再生産率の範囲内で、科学的不確実性も考慮して予防的アプローチに基づき限定的かつ慎重に設定された捕獲限度のもとで捕獲することは、果たして環境破壊であろうか。捕鯨への反対論は、むしろクジラは特別な動物(知能が高い、絶滅に瀕している(と思われている)、 生態系の頂点にある、大きい、美しい、感情豊か等々)であり殺すべきではない、捕鯨砲と銛を使う捕鯨は本質的に残虐である、といったクジラと捕鯨に関する根本的な考え方の違いに基づく場合が多い。これは、クジラを海洋生物資源とみる立場から見ると、非科学的、感情的、価値観や倫理観の押しつけ(反捕鯨思想に対して環境帝国主義や環境植民地主義といった批判が聞かれるゆえんである)であり、国連をはじめとする多くの国際機関などが認めた持続可能な開発原則を損なうもの、人間と動物の関係における多様性の否定ということになる。

 

このような主張は、クジラをめぐっての対立だけに限定されず、ワシントン条約 (CITES)や 生物多様性条約 (CBD)などの締約国会議の場でもゾウやその他の生物に関連して議論されており、捕鯨問題は「持続可能な利用原則の支持の象徴」あるいは「持続可能な利用原則の防衛の最前線」と捉えることが出来るだろう。

 

IWCに は、捕鯨を行っていないもののクジラの持続可能な利用を支持する国が多く存在するが、そのような国々のIWCへの関心と危機感は、主にこの持続可能な利用原則の防衛と生物資源の利用 (人間と動物の関係)に関する多様性の保持、クジラが特別でアンタッチャブルな存在として保護される結果としての海洋生態系のバランスの崩壊(漁業への影響)な どにある。その意味では、日本の商業捕鯨が日本のIWCか らの脱退という形で実現しも、国際的な捕鯨問題は解決したわけではなく、持続可能な利用原則にかかわる諸問題はなくなりはしない。

 

日本の捕鯨の将来に向けての検討を行う時にも、捕鯨と持続可能な利用原則との関係について論じておかなければならない。なぜなら、将来の捕鯨がどのような思想、管理措置、政策の元で行われるかが、国際社会がSDGsを含む様々な宣言や決議で認めている持続可能な利用原則のあり方に影響を及ぼす可能性があるからである。それほどまでに捕鯨問題の有する象徴性は大きい。

 

ラマレラ村のクジラ漁

 

捕鯨問題は環境問題として扱われ、反捕鯨の立場からすれば捕鯨を行うことは環境破壊であるという認識である。捕鯨問題は環境問題のシンボルとしてみなされている。IWCに出席する反捕鯨国の代表の多くが、環境省など環境問題担当の政府部局の所属である。余談になるが、自民党捕鯨議員連盟の会長も務めた鈴木俊一衆議院議員(現財務大臣)が2002年に第1次小泉改造内閣の環境大臣に就任した時、反捕鯨関係者は、信じられない、驚愕、何かの悪い冗談か、などといった反応を示した。それほどまでに、捕鯨は環境破壊であるというイメージが存在する。捕鯨イコール鯨の絶滅というイメージがあまりにも強い。また、就任記者会見では、記者から「野生生物を保護すべき立場の大臣が、捕鯨を支持するのはおかしいのではないか?」 という質問も出たが、鈴木議員は、「クジラであれ、ゾウであれ、ウミガメであれ、アザラシであれ、あらゆる生物資源で、希少な種は徹底的に保護する一方、数の多いものは、適切な管理をしながら、持続的に利用しつつ人類と共存を図るべきであると思う。」と述べている(ラポワント, 2005)。

 

しかし、厳格な捕獲枠のもとで、資源に悪影響を与えない捕鯨は環境破壊であろうか。資源量が豊富な種の鯨について、その再生産量の範囲で、充分に安全を見込んだ捕獲を行うことは科学的にも、規制遵守、監視取締の観点からも可能である。

 

クジラは特別な動物であり、一頭たりとも捕獲は許されないという主張は、環境問題のカテゴリーではないはずである。このような主張は、動物は人間と同等の権利を持つというアニマルライツ(動物権)の 主張とされ、環境問題とは別物である。他方、アニマルライツは全ての動物を同等に扱うが、反捕鯨関係者には他の動物の利用は認めていながら、鯨の捕獲は認めないという立場のものも多い。したがって純粋なアニマルライツの信奉者でもない。特定の動物を特別と見なす考え方は、カリスマ動物、アイコン動物、という概念に基づく。この概念のもとでは、持続可能な利用原則の適用に際して、恣意的な例外が存在し、その例外についてコンセンサスがなくとも、多数派なり力の強いものが、他者にその考え方を強いるという構図が成立する。捕鯨はまさにこのケースであり、さらに懸念されることに、捕鯨は唯一のケースでもない。そのため、捕鯨問題は人間と動物の関係を考える上で重要であり、その今後の展開は食料問題を含む様々な問題に影響を及ぼす可能性がある。

 

 

カリスマ動物-人間と動物との関係

 

ここでカリスマ動物という概念について説明しておかなければならない。一般に、カリスマ動物とみなされる動物は、大型の脊椎動物で、子供も含めて誰もがその動物を知っており、美しい、強い、可愛いなどといった感情を引き起こす動物であるとされ、ゾウ、トラ、オオカミ、そしてクジラやサメなどが代表的なカリスマ動物とされる。また、クジラに見られるように、実際は絶滅の危惧に瀕していないにもかかわらず、絶滅の恐れがある(故に保護されなければならない)というイメージがカリスマ動物にはつきまとう。実際にカリスマ動物とみなされる動物には、一部の系群や種が絶滅危惧にある場合も存在するため、さらに混乱し、絶滅危惧のイメージが定着する。例えば、南極海のシロナガスクジラは過去に乱獲され、いまだに個体数が回復していないが、ミンククジラ(クロミンククジラ)には乱獲の歴史はなく、豊富な資源量を有している。

 

保全生態学においては、生態系の中で重要な役割を果たしている生物種をキーストーン(要石)種、フラッグシップ種などと呼び、その保全を通じて生態系全体の保護や保全を図るということが行われているが、これらの概念とカリスマ動物の概念が時には意図的に混同されていることへの懸念も表明されている(Ducarme et al., 2013)。 また、真に絶滅が危惧され保護が必要でありながらカリスマ性がない生物と、絶滅の危惧はないもののカリスマ性のある生物を比較すると、研究資金や保護のための資金、方策がカリスマ性のある生物の方に惹きつけられがちであるということにも懸念が表明されている。

 

 

環境帝国主義、環境植民地主義

 

どの動物がカリスマ動物であるかという点については、必ずしもコンセンサスがあるわけではない。例えば、Bowen-Jones and Entwistle(2002)に よれば、英国の学童は大型ネコ類、霊長類、そしてゾウが大好きであるが、タンザニアの子供たちは危険なゾウと大型ネコ類を恐れ、忌み嫌い、むしろシマウマ、キリン、そしてバッファローの方が魅力的で、金銭的利益につながり、肉質がいいということで好まれる。ライオンやゾウをテレビの画面や、動物園の檻の中、ディズニー映画を通じて知る子供たちと、自分の生活域の中で時には人間をも襲う猛獣として知る子供たちでは、当然このような違いが生まれる。その時に、ライオンやゾウをカリスマ動物と見る先進諸国から発展途上国に対して、その絶対的保護を求める要求は、価値観の押し付け、大国の横暴ということになる。クジラという動物に関する価値観の大きな違いが根底にある捕鯨問題もこの構図に当てはまる。

 

特にそれが、国際社会で広く認められ、その実施が求められている持続可能な利用や開発の原則に、恣意的な例外を求めるものであるとするならば、カリスマ動物のコンセプトの影響は単なる動物観の違いに留まらない。捕鯨問題をめぐっても、環境帝国主義、環境植民地主義、と言った批判が持続的利用支持国側から反捕鯨国側に向けられる。捕鯨問題は環境問題ではないという上記のポイントとはやや齟齬もあるが、文化、歴史、生活環境の違いなどを無視して価値観や政策を強いるという側面においては、この批判に頷ける。IWCに参加している持続的利用支持派の開発途上諸国は、他の国際的な問題や課題における自らの経験を通して、捕鯨問題に環境帝国主義、環境植民地主義の匂いを嗅いでいる。そして、捕鯨問題において反捕鯨の主張が拡散していくことが、持続可能な利用や開発に関わる他の国際的議論に悪影響を及ぼしていくことを強く警戒し、それを阻止しようとしているのである。

 

これが捕鯨問題のもう一つの政策課題であり、捕鯨問題が本当に象徴している問題である。商業捕鯨モラトリアムの解除などを通じて、捕鯨を再開し、続けるという政策課題は日本、ノルウェーなどの捕鯨国にとっては具体的かつ重要な政策課題であるが、それだけが捕鯨問題ではない。むしろIWCに参加する持続的利用支持国の多くにとっては、前者の持続可能な利用の原則の防衛と振興こそが重要な政策課題なのである。

 

ホッキョククジラの回遊を待つ鯨ハ ンター(米国アラスカ州バロー)

 

捕鯨問題から見る自然と人間の関係

 

捕鯨に反対する理由や主張はさまざまであるが、動物権、カリスマ動物、菜食主義、手付かずの自然の保護、そして漠然とした環境保護やエコな生き方といったキーワードを上げることができよう。クジラを含む動物を食料としてはみなさず、自然への干渉を極力抑える、禁止するという考え方と言い換えることもできるかもしれない。漁業を含む人間活動の抑制や禁止を目指す海洋保護区の設定の主張もこれに通じる面が大きい。しかし、このような主張や考え方は本当に環境保護につながるのか、自然と人間にとって適切で望ましいことなのか、捕鯨問題の視点から検証してみたい。

 

菜食主義と自然への不干渉が広がる時、牛豚羊などの家畜や魚を含む野生生物の消費が減少し、さらに人間は観光以外での自然との関わりを減少させていくということとなる。これは、自然と人間の関わりそのものが減少していくということであり、さらに自然と人間を切り離していくということでもある。捕鯨問題をめぐる議論の中でも、欧米諸国を中心とした反捕鯨の主張は、人間と自然を別のものとして捉え、自然を外から見る視線で、その外にいる人類が自然という別の存在を捕獲や開発により脅かすので、制限や禁止をしていかなければならないという考え方を土台としていると指摘されてきた。これは、欧米諸国が自然を開拓し、征月Rし、改変するものとして捉え、その結果として環境破壊を招いたという歴史的背景への反省や裏返しという様相もあるが、自然を人類が対峙するものとして捉えている点においては、実は変わっていない。環境保護も環境破壊も、他者としての自然という視点に立っている。保護も破壊も他動詞的発想である。

 

1959年沖縄津堅馬天地区の捕鯨(©日本鯨類研究所)

 

他方、アジア諸国や開発途上国を中心とする持続的利用支持国側の自然観は、歴史や自然・宗教観(アニミズムや輪廻転生)を上台とする。食料や毛皮などの提供者として動物を捕獲する時、我々日本人やプリミティブとされる民族はその動物が命を捧げてくれたことに感謝する。反捕鯨国的世界観から見れば、これは奇妙な習慣と映るかもしれない。命を奪うことと、感謝することが矛盾と思えるのである。建物を建てるためや農地を開くために森を潰した時、日本では地鎮祭を行ない、祠を建てる。フイジーのリゾートホテルでは、ホテルに土地を提供した現地の住民が、ホテルのショーで土地の神に捧げる歌を毎日歌っていた。多くの持続的利用支持国では、自然は他者ではなく、上から目線で破壊したり保護したりする対象ではない。自然は自分たちが入っている器であり、人間の営みや存在と自然は対峙するものではなく、一体をなすものである。

 

日本を含め、現在捕鯨を行なっている、もしくは持続可能な捕鯨を支持する国や民族は、程度の差こそあれ、自然を他者とは見ない自然観を持っているのではなかろうか。捕鯨国であるノルウェーとアイスランドはこのカテゴリーには入らないかもしれないが、北欧諸国はその美しくも厳しい自然環境を背景に、他の欧米諸国とは一線を画した自然観を持っているように感じる。ギリシャ神話の世界観と北欧神話の世界観の間には明らかに違いがあり、トロルや妖精が森に住み、人間の生活圏と彼らの生活圏の間に明確な境界がない北欧神話の世界は我々日本人の世界観と通じるものがあるのではないだろうか。

 

鯨肉を調理するイヌイットの女性たち(米国アラスカ州バロー)

 

他方、鯨油を得ることのみを目的とし、鯨類資源の乱獲を招いた過去の英国や米国の捕鯨は、工業原料としての鯨油を得るための活動で、原油採掘と変わらない。クジラは海を泳ぐ脂の塊で、その捕獲は他者としての自然からの搾取であり、奪ったクジラの命への感謝と言った感覚や儀式は、不勉強にして筆者は知らない。同じ米国でも、その先住民捕鯨では鯨が捕獲されるたびにその命への感謝の祈りが捧げられ、この祈りは捕鯨活動の欠くことのできないステップである。祈りが行われない限りクジラの解体も始まらない。

 

反捕鯨国では捕鯨は環境破壊のシンボルとされているが、過去の欧米諸国による鯨油欠くを目的とした捕鯨と、それがもたらした乱獲は確かに環境破壊の名を冠することができるものであろう。しかし、主に鯨肉供給を目的とし、厳格な捕獲枠を設定・遵守し、さらにクジラを含む自然や他の生物を他者として扱う自然観とは異なる世界観のもとで行われる捕鯨は環境破壊とは言い難い。捕鯨をめぐる対立と議論の背景には、この世界観の違い、あるいはその違いを認識していないことがあるのではないか。

 

言い換えれば、クジラを持続的な利用が可能な資源とみなす考え方と、クジラは資源などではなくいかなる場合であっても保護すべき動物であるという考え方の対立である。一般的には、後者のクジラ保護の思想の方が自然に優しいものであると考えられがちである。しかし、この思想はクジラに表象される自然と言うものを、人間から見た他者と見做している。保護も破壊も自然を他者と見て、自然との間に距離もしくは境界が存在する点では共通している。

 

前者の、クジラを資源とみなす考え方のもとでも、資源の乱獲や環境破壊が行われてきたことは事実であり、両者の違いを論じることには大きな意味はないのかもしれない。しかし、自然と人間を別の存在と位置づけ、自然の絶対的保護を求める時、人間はその引き換えとして自らに大きな代償を求めることにつながる。例えば、海洋生態系を保護するという時、その海洋生態系を損ない、破壊するのは自然にとっては他者である人間であり、したがって人間活動である漁業を海洋保護区やそのほかの規制で制限・禁止することを主張するという構図が思い浮かぶ。自分と他者である自然が存在するが故の二者択一的な問題設定(自然をとるか人間をとるか)と対応策の構築である。

 

さらに、この代償は往々にして公平に負担されていない。すなわち、保護を主張する者と、その代償を払う者が同一ではない。「リビングルームの環境保護者」という言葉がある。漁業の禁止など厳格な海洋保護区や、社会経済活動を制限・禁止して豊かな自然を保護することを主張する者力\往々にして先進国の大都市で快適な家に住み、リビングルームで美しい自然を紹介するナショナルジオグラフィックなどのテレビ番組を見て環境保護を求めている一方で、その環境保護の代償として、生活の糧である漁業や狩猟、森林の利用などを制限されたり失ったりするのは、その自然環境の中で生活してきた地方在住者や開発途上国の国民であるという不公平さ、ずれ、ギャップを表している。

 

捕鯨問題を環境問題として位置付けるか否かについてはさておき、環境問題一般においては、環境保護をとるか、人間の社会経済活動をとるかという二者択一の選択を求める議論と主張が支配的である印象が強い。環境を保護するためには何かを犠牲にしなければならない、という構図で、その犠牲はだれが払うかという主張が対立を招くことになる。このような二者択一的な問題の性格付けと、人間と自然の間に境界を設けて自然を他者と見る世界観はつながっている。そして、これが欧米先進国型世界観の基礎を形成していると言えよう。捕鯨問題や環境問題における欧米先進国を中心とした主張の中に、宗教的な、特に一神教的な要素を見る関係者は少なくない。問題の中に善と悪の対立を見て、一神教においては神、すなわち真理や正義は一つしかないという構造を環境問題の中に当てはめるというアプローチである。例えば、捕鯨問題においては、捕鯨を行うことは科学や法律の問題ではなく、倫理的に「悪」であって、捕鯨に反対することは正しいことであるという認識、主張となる。そこでは、立場の違いを受け入れて妥協を図るという発想が出てきにくい。

 

他方、日本を含む非欧米型世界観においては、多数の神が存在し、人と自然との間の境界があいまいである。自然の中には様々な神がおり、さらに「神殺し」にかかわる寓話や伝説が伝わるなど、この世界観の中では善と悪、二者択一という構図は成り立ちにくい。むしろ、様々な価値観や倫理観が共存する、時には混とんとした状態が許容されやすいのではなかろうか。一神教であるキリスト教が日本に渡来した時、日本という世界では、おそらく、たくさんいる神に新たな神がヒトハシラ加わったという感覚だったかもしれない。キリスト教の布教がそのほかのすべての宗教の改宗を意味する世界観からすれば、このあいまいさは受け入れがたいであろう。ここに、捕鯨問題や環境問題における紛争との類似性を見るのは筆者だけではないであろう。

 

 

結びとして

 

捕鯨問題における日本の交渉方針は、そのほかの多くの交渉と同様であるが、意見を異にする交渉相手に情報やデータをもって説得し、「理解と協力」を求めるというものであった。IWCからの脱退が報じられた際も、マスコミは、脱退など短絡的な行動をとるのではなく、粘り強く本目手を説得して理解を求めるべきであるという反応であった。そこには、誠意をもって説得し、鯨類の資源状態などの科学的情報や捕鯨をめぐる議論の真実が理解されれば、日本の主張は受け入れられるはずであるという前提や信念が存在する。対立の原因は誤解や情報不足にあるという理解であるともいえる。一神教的世界観を持つ反捕鯨団体や反捕鯨国が、捕鯨国を改宗させて、「悪」である捕鯨をやめさせるという視点を、意図的であるか否かは別にして、持っていることは、なかなか理解しがたい。捕鯨問題をめぐる議論や交渉が「かみ合わない」と評されることが多いが、片方の当事者が本目互理解と妥協が問題解決のカギと考えている一方で、もう一方は自らの価値観や倫理観を相手に受け入れさせることを目的とするならば、議論や交渉が成り立たないのは当然の帰結であろう。

 

2018年の第67回 IWC総会における日本の提案は、交渉が成り立たないことを認識し、それを前提としたうえで、捕鯨に関する異なる考え方の共存を受け入れることで、政府間国際機関としてのIWCの機能を一部なりとも確保することを目指した提案であった。IWCはこの提案さえも否決したことから、日本の国際捕鯨取締条約からの脱退ということにつながったわけであるが、日本の脱退は捕鯨問題の終わりを意味するわけではない。世界に捕鯨を行う国が日本以外にも現実として存在し(Robards and Reeves, 2011)、 したがって、国連海洋法条約に高度回遊性生物として規定され国際的な取り組みが求められている鯨類資源の保存と管理の必要性が存在するという現実がある。この必要性に応えるためには、すでに鯨類資源と捕鯨の管理を波棄したといえるIWCと、そのような状況を招いた欧米型世界観ではなく、異なる価値観や多様性の共存を受け入れることができる非欧米型の世界観を上台とする国際機関の設立が求められることになる。日本の脱退が、この新たな道のりへの出発となることを期待したい。

 

筆者:森下丈二(東京海洋大学教授)

 

この記事を英文で読む(Whaling Today

(Part 1) 

Revisiting the Roots of the Whaling Issue: Sustainable Use, Environmental Protection

(Par 2) 

Revisiting the Roots of the Whaling Issue: The Relationship Between Humans and Nature

 

 

参考文献:

ラポワント, ユ ージン. 三崎滋子訳. 2005. 地球の生物資源を抱きしめて―野生保全への展望. 新風舎. 317pp.

森下丈二. 2019. IWC脱退と国際交渉. 成山堂書店. 245pp.

Bowen‐Jones, E. and Entwisde, A. 2002. Identifying appropriate flagship species : the importance of culture and local contexts. Oryx 36(2). 189-195.

Ducarme, F.,  Luque, G. M. and Courchamp, F. 2013. What are “charismatic species” for conservation biologists. École Normale Supérieure de Lyon. BioSciences Master Reviews. 1-8.

Robards, M. D. and Reeves, R. R. 2011. The global extent and character of marine mammal consumption by humans:1970-2009. Biological Conservation 144. 2770-2786.

 

 

 

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