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《2005年GPファイナル女王となるなど大旋風を巻き起こした浅田真央だが、2006年3月の世界ジュニア選手権では、同じ1990年生まれのライバル、金姸児(キムヨナ)(韓国)の後塵を拝した。一方で、まな弟子のさらなるステップアップに向け、環境を変える必要を感じた》
真央はものすごく才能のある子で、私たちの中ではもう指導の限界を超えている。(伊藤)みどりのときもそうでしたけれど、できればどこかほか(の指導者のところ)に移ってもらいたいと思いました。みどりの場合は名古屋を選んだんですけど。
(2018年平昌五輪銀メダリストの)宇野昌磨もそうですし、みんな、もっと羽ばたいて、いろいろなところで学び、いいところを見いだしてもらったほうがいい。うちに残りたい子はうちにいていいんですけれども、やっぱりいろいろなコーチの指導を受けた方が、それぞれの個性のいい面が出て、いいんじゃないかなっていうのはありましたね。
《世界ジュニア選手権から数カ月後、浅田は拠点を米国に移すことが発表された》
細かいことは覚えていませんけど、多分、記者団の人には、(世界ジュニア選手権終了後に)「これからも2人で頑張ります」と言ったかもしれません。でも、そのときにはもうお互いに、(コーチを変更することを)考えていたかもしれません。
最初にうちにきたときは、まだ私たちでも教えられるレベル、日本で何番手というレベルの真央でした。もちろん滑りは素晴らしいし、私たちで育てたいと思って引き受けました。そこから順調に育ちました。
うちにいたいと言えば、いたと思うんですけれども、(浅田サイドも)どこか別の指導者のところに移った方がいいんじゃないかな、と感じていたとは思います。
《師弟関係の解消を切り出したのは、山田の方だったという》
そうですね。私の方から言いました。
《これだけ多くのトップ選手を育ててきても、自身を「強化型」でなく「普及型」の指導者という》
私の仕事は〝底辺拡大〟です。今でも私は、選手がいるから「強化」をやっていますけど、でももともとそういうタイプじゃないから。真央のときも、真央が世界のトップを争う選手だから強化の方に力を入れるべきだとかでなく、レベル的に私たちが教えられるところはここまでかなと思いました。
《そうはいっても、逸材を自ら手放すのは簡単なことではない。それが山田の優しさであり、懐の深さでもある》
やっぱり、悲しいものは悲しいですよね。選手が離れていくのはどうしても。
自分の実の子供でも別れは寂しいですよね。寂しいけれども、その子のことを思ったら、そうしなきゃいけないということがあるでしょ、親だって。同じようなものかな。
すごく能力がある子なので、よそにいったらもっと花開くだろうなと思ったら、仕方ないですよね。
《いつまでも教え子は教え子だ。引退後も浅田の活躍にエールを送る》
人間的に強いということでしょうか。(東京都立川市に夢だったという)スケートリンクも作られるようだし、本当に、私なんかより数倍しっかりしている。私はどっちかというと、みんなと「はいはい、仲良く」という感じですけど、彼女はそうじゃない。
だからこそあそこまでいったし、また何か新しいことに挑戦していくんじゃないかな。
聞き手:橋本謙太郎(産経新聞)
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■山田満知子(やまだ・まちこ)
昭和18年6月、名古屋市生まれ。7歳でフィギュアスケートを始め、名古屋・金城学院高時代には女子シングルでインターハイ、国民体育大会で優勝。金城学院大在学中の20歳でコーチとなり、名古屋スポーツセンターを拠点に活動。伊藤みどり、恩田美栄、浅田真央、宇野昌磨ら多くのトップ選手を育ててきた。現在も多くの教え子を指導する。
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2023年11月22日付産経新聞連載【話の肖像画】(21)を転載しています