北朝鮮が多くの拉致被害者を拘束し続ける中、崔成龍氏は敵対国が自国民を残忍に拉致しているのに、傍観する国家があるだろうか、と問う。
Lead Kenji Yoshida rs

JAPAN Forwardとのインタビューに応じる崔成龍氏(©吉田賢司)

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「もう時間がない」と崔成龍(チェ・ソンリョン)氏は嘆いた。崔氏の穏やかな声の裏には、燃え上がるような決意が隠されている。70代半ばとなった崔氏は、過去30年以上にわたり、北朝鮮に拉致された韓国人の送還とその家族の権利擁護のために活動してきた。

拉致被害者とは、朝鮮戦争(1950〜53年)後に北朝鮮当局によって拉致された数千人の韓国人を指す。韓国統一部の報告によれば、北朝鮮は1953年の休戦協定後、約3,835人を南から拉致。その多くは帰国したが、516人はいまだ行方不明のままだ。そのうち約半数は、北朝鮮体制の圧政の下で既に命を失ったと崔氏は指摘した。

「私たちの息子や娘、母親や父親、そして兄弟姉妹が、残忍な独裁者の支配下で苦しんでいる」と、崔氏は北朝鮮の指導者を指しながら語った。「私の父もそこで殺されたが、遺影を見ることも、父にふさわしい安らぎを与えることもできていない」。

崔氏は最近、北朝鮮のある連絡先を通じ、1972年12月の厳寒の中、父親が反逆罪で処刑されたと知らされた。

拉致被害者の画像を紹介する崔氏(©吉田賢司)

崔氏の父は、朝鮮戦争中に艦長として従軍し、元米軍防諜部隊(Korea Liason Office)の指揮下で任務を遂行した。兵役後は、小規模な海運業を営みながら家族を養い、妻と共に3人の子どもを育てていた。

しかし、1967年6月5日、予期せぬ出来事が崔一家の運命を一変させた。早朝、崔氏の父はある乗組員の代理として外洋に出かける漁船に乗船した。だが、その漁船には北朝鮮の工作員が潜んでおり、船は予定の航路を外れ、そのまま北朝鮮へと向かったのだ。その日以降、崔の父が家族の前に姿を現すことはなかった。

「父は誇り高い人だった」と崔氏は語る。「北朝鮮の侵略に抵抗したがゆえに、狙われたんだと思う」。

崔成龍氏は2012年より、韓国で唯一の政府公認組織である「戦後拉致被害者家族連合会」の会長を務めている。近頃、北朝鮮に向けたいわゆる「プロパガンダビラ散布」を再開し、注目を再び集めている。

しかし、崔氏はその表現を否定した。手にしていたのは、7人の拉致被害者の白黒写真と個人情報が刻められた8×11インチのビニール袋だった。その袋の中には、北朝鮮の金正恩氏が獄中にいる姿を描いた小さなリーフレットが含まれていた。さらに、リーフレットには、金正恩に対し、「拉致犯罪を解決しなければ、報復を免れることはできない」と警告する露骨な内容の手紙が添えられていた。

北朝鮮に送られたビラとビニール袋(©吉田賢司)

言葉が粗いのは認めると崔氏は語った。だが、その一方で、書かれている内容に嘘は一切ないと明言した。「このビラを使って金正恩政権を転覆させるつもりも、北朝鮮国内の認識に影響を与えるつもりもあない」と崔氏は語った。「それは私たちの役目でもなく、立場でもない。望むのは、ただ家族を取り戻すこと」。

ビラ活動への報復として、平壌はこれまでに複数回、ゴミを詰めた風船を厳重に警備された国境を越えて南部に送り込んだ。しかし、こうしたやり取りは朝鮮半島全体を巻き込む、より広範な対立構造の一端に過ぎない。2024年初頭、金正恩政権は南北間の係争海域で軍事的挑発行為を繰り返した末、長年掲げてきた統一目標を正式に放棄するに至った。同年10月には、憲法改正を通じて韓国を「敵対国家」と位置づけ、南北間の分断はかつてないほど強固なものとなった。

韓国第一野党である民主党は、政府に対して南北間の緊張を緩和するよう求めると同時に、活動家に対してビラ撒きの中止を強く要求している。さらに、国境付近の住民からもビラ送付に対する反発が相次いでいる。彼らは、北朝鮮が報復として行う拡声器放送による地域の混乱や、武力衝突の危険性が高まることを懸念している。これを受けて、地方政府は10月に国境付近の11か所を「危険地帯」に指定、ビラ撒き活動を厳しく取り締まる措置を講じた。

これに対し、崔氏は韓国の政治家たちが北朝鮮に「欺かれている」と主張した。「朴槿恵(パク・クネ)政権時代、北朝鮮との関係改善を目指す政府の要請を受け、私たちは一時的にキャンペーンを中止した。しかし、結果的には何の進展も得られなかった」と言った。

その後の文在寅政権時代には、政府がビラの飛行配布を公式に禁止する措置を取った。しかし、後にこの禁止令は韓国最高裁によって違憲と判断され、ビラ配布活動は制限を受けることなく再開することができた。

「金一族を富ませた結果、北の独裁者たちが成し遂げたことは、北朝鮮の核兵器開発をさらに進めただけ」と崔氏は指摘した。

崔氏は、政府が拉致問題を放置し、無気力な態度を取っていることを「職務怠慢」と表現した。激動する南北関係の中で、この問題は何十年間、国内の政治や公的議論の中で脇に追いやられてきた。

対照的に、崔氏は日本の国会議員、メディア、そして一般市民が密接に協力して拉致問題への認識を高め、拉致被害者の救出に向けて取り組んでいると述べた。「継続的なメディアの報道と、政治家による果敢な行動が、日本の外交的成功を導いた」と語った。

2002年、当時の小泉純一郎首相は北朝鮮を訪問し、金正日総書記と初の首脳会談を行った。この会談の中で、金正日は緊張感を和らげるため、北朝鮮が13人の日本人を拉致したことを認め(日本は公式には17人、さらに多く拉致された可能性を主張)、前例のない謝罪を表明した。

2002年、平壌での首脳会談で金正日総書記と握手する小泉純一郎首相(©内閣広報室)

2002年10月、5人の拉致被害者が最終的に帰国した。この成果は、小泉首相の決断力ある外交に加え、メディアの厳しい監視と市民の圧力によったものと広く評価された。

崔氏は、金大中政権下の2000年に行われた金正日総書記との第1回南北首脳会談で、同様の機会があったと指摘した。その際、韓国政府は南に収容されていた親北派の非転向長期囚63人の釈放に同意した。しかし、対話の中で拉致被害者問題が取り上げられることは一度もなかった。

「なぜ互恵的な話がなかったのか」と、崔は唸った。「敵対国が自国民を残忍に拉致しているのに、傍観する国家があるだろうか」。

政府の支援がほとんどない中、崔氏は自らの手で問題を解決せざるを得なかった。過去数十年にわたり、彼は北朝鮮とその周辺に足を踏み入れ、拉致被害者に関する情報を収集し、敵地内で密かに連絡先を作ってきた。もちろん、このような活動には計り知れない危険が伴った。

しかし、そのリスクは報われた。崔氏によれば、2000年から2016年の間に、崔氏の組織は9人の拉致被害者と12人の捕虜の救出に成功し、1人の捕虜の遺骨を北から送還することもできた。また、2011年には平壌市民登録簿の入手にも貢献し、この登録簿には首都に居住する200万人の氏名と写真が記載されていた。そこから21人の拉致被害者を発見し、その情報を公開した。

崔氏は、今後政府に対してより強いコミットメントを求める一方で、尹錫烈大統領の下での前向きな進展を評価した。

史上初めて韓国、日本、米国の首脳がキャンプ・デービッド首脳会談で北朝鮮による拉致問題の即時解決を共同で求めたことを崔氏は強調した。この画期的な出来事は、米国のジュリー・ターナー北朝鮮人権問題特使が、5人の韓国人学生が拉致された現場を訪問したことにもつながったと考えている。

「ターナー氏が4月に韓国を訪れた際、スピーチの中で私の父の名前を口にした」と崔氏は回想した。「その瞬間、涙を抑えることができなかった。」

尹政権はまた、拉致問題の解決に特化した閣僚級の部署を新たに設置した。この取り組みは韓国で初めての試みとなる。

今後の計画について尋ねられた崔氏は、世界中の大使館を訪問し、拉致被害者の苦境を訴えるポスターを配布したいと語った。

筆者:吉田賢二(ジャーナリスト)、ジェイソン・モーガン(JAPAN Forwardエディター、麗澤大学国際学部准教授)
   

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