日本はこれからどんな外国人政策をとるべきなのか―。国際協力NGO元会長の柳瀬房子氏が、移民をめぐる議論と、外国人の社会統合と支援の在り方を考察する。全7回。
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コンゴ東部で戦闘から逃れる人たち=1月26日(ロイター)

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難民条約(「難民の地位に関する1951年の条約」と「難民の地位に関する1967年の議定書」)は1951年、「東側」から「西側」に逃亡するしかなかった一般の市民を保護することを主な目的として誕生したものである。現在の難民条約が冷戦下で生まれたという歴史的経緯が、今日でも難民の定義に色濃く反映されている。

それは、共産主義勢力が支配した国々で、政治的な信条や宗教的な属性の違いといった事情により支配層と対峙する人々が、激しい弾圧を受けた結果なのである。

しかし、その後の国際社会は「東西」だけでなく「南北」「南南」諸国間でさまざまな問題に直面している。イデオロギーによる分断だけでなく、民族間の対立、貧富の格差などに起因して、地域的な戦争・紛争が起こり、治安が悪化して略奪や虐殺も行われている。生活基盤を失った人々は、治安がよく経済も安定した土地での暮らしを求め、国外へ脱出した。また、必ずしも生命や自由の危機にさらされていなくても、貧困や災害、社会的な差別や偏見から逃れ、新たな人生を求めて移住する人々も多数いる。

このように、国際情勢が「東西対立」から「南北問題」「南南問題」へと大きく変化しているなかで、強権的な支配体制から逃れてきた市民を庇護するための難民条約の枠組みを、統治の脆弱さから日常生活が混乱していることに不満を抱いた市民の受け入れに、そのまま適用することに無理が生じているのだと考えられる。

一方、そうした人々を十把ひとからげに経済的な事情による移民に過ぎないとして、一律に排除するのは適切であるとは思えない。

そこで、紛争をはじめ不特定の市民に対する無差別な暴力が蔓延している状況を逃れてきた人々を、条約難民に準じて受け入れるための仕組みが求められるようになった。それが、昨今、補充的保護などの名称で、日本を含め一部の諸国で整えられているものである。

今後も、政治的抑圧、紛争や戦争、経済的危機、自然災害などさまざまな理由から、慣れ親しんだ土地を離れざるを得ない人々が、この世界からいなくなることはないであろう。そして、世界の多くの人々は、移民・難民認定となった人々を「助けなければならない」という気持ちを共有しているはずだ。しかし、その具体的な方法やシステムについて、私たちはまだまだ試行錯誤のただ中にいる。

ご承知のように本年(2025年)3月28日午後3時すぎ、ミャンマー中部ではマグニチュード7.7の大きな地震に見舞われた。また同時に隣国タイの首都バンコクでは建設中の高層の建物が倒壊するというニュースは記憶に新しいところである。被災された皆様に心からお見舞い申し上げ、一日も早い復興を祈っている。そして、私がこのニュースで注目したのは、バンコクの倒壊現場には多くのミャンマー人が就労していたということである。

Media Intelligence Group(MIグループ)によるタイにおけるミャンマー労働者の行動調査では、現在、 タイには約680万人ものミャンマー人労働者がいるとされ、その多くは未登録労働者で、労働許可を得ているミャンマー人労働者は約185万人だそうである。タイに滞在する全外国人労働者約270万人のうち、ミャンマー人が 67%以上を占めていると報告されている。

ミャンマーから逃れたロヒンギャ難民=2024年5月2日、バングラデシュのコックスバザール(ロイター)

難民とは認め難い避難民は、中東やアフリカ諸国だけではなく、日本人の馴染みあるタイでも、労働許可を得ずして就労しているミャンマー人が、単純に計算しただけでも約500万人がいるということになる。例えば倒壊現場で生命を落とした時、怪我した時、名前も登録されておらず勿論何の保証もなく、そのまま無になられてしまうのであろうか。

ミャンマー・タイの場合は陸路何らかの手段で、国境を超えたので未登録となっているが、日本の場合は、空か、海の港で入国手続きをしなければならない。したがって未登録ということは考えにくいが、しかし入国して決められた期限までに出国するか、または、在留資格を得なければ、そのまま不法滞在となってしまう。私は、そのような状況で外国人労働者を日本では受け入れるべきではないと考える。日本に在留する以上は、いざという時の保障や支援を受ける資格を持ち、日本人からも外国人からも信用を得られるように在留資格を整えられるよう応援をしたいと思っている。

そして、欧米諸国の移民・難民政策で、まさに問題とされている内容をきちんと検証し、日本に当てはめた場合、先に記した、統治の脆弱さから日常生活が混乱していることに不満を抱いた人々に対して、その精神は尊重し、情報や格差是正の仕組みを求める。これまでの、国際機関、例えばUNHCRやIOMのような難民支援や移住機構の仕事よりも、JICAが行う国際協力、発展途上国への技術支援や資金援助などをもっと充実させ、それぞれの国の人々が、自分の国で家族やその周囲の人々と共に自由に活躍ができ、平和で安定した日々を過ごすことができるような国づくりが進むよう支援すべきと考える。

2025年4月30日は、ベトナム戦争終結の日から50年目の節目となる。1970年代後半から80年代のインドシナ難民の流出は、目を覆うものがあった。特にベトナムからのボートピープルは、200万人とも300万人とも云われており、21世紀の現在のような、インターネットも携帯電話も出回っておらず、何の情報のないまま、人々は伝聞のみ信じるしかなく不安と焦燥にかられながらも、生への可能性を試すべく、国を捨てて海に漕ぎ出した。国にいるときは、かすかに波打つような電波で、聴こえるか聴こえないかの、VOAやCNNニュースを頼りに、しかし海に出たらそれは何もない。

陥落直前にサイゴンを脱出し、空母ミッドウェイに到着した南ベトナム市民

当時10歳だった少年は60歳になり、縁あって日本に救われ、30年以上前に日本国籍を取得した。会社経営に勤しみ、出身国からの留学生や技能実習生たちのお世話をしている。文字通り、日本とベトナムの懸け橋となって活躍している人々も多くいる。

外国人労働者は短期間、報酬を得るための仕事として割り切って日本に滞在したいのか、いずれ家族も呼び寄せ、日本でずっと暮らしていきたいのか、一人ひとりの意思が異なると考えられる。いずれであっても、合法的に在留でき、日本人社会でともに相手を尊重しながら生活ができるよう、互いに努力をして行たいものである。

筆者:柳瀬房子(認定NPO法人、難民を助ける会前名誉会長)

[日本と移民]シリーズ(全7回)

■柳瀬房子(やなせ・ふさこ) 認定NPO法人、難民を助ける会前名誉会長。青山学院大学大学院総合文化政策学研究科修士課程修了。1979年にインドシナ難民を助ける会(現難民を助ける会)の設立準備に関わり、翌年、30歳で事務局長に就任。以来、半世紀近く日本の難民支援の草分けとして活動。2023年に退任後も、法務省難民審査参与員として尽力する。2024年12月に出版した『難民に冷たい国?ニッポン』(慶應義塾大学出版会)のほか、日本絵本賞読者賞を受賞した『サニーのおねがい 地雷ではなく花をください』(絵:葉祥明、自由国民社)など著書多数。

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