英国の宮殿に、謎の日本製刺繍(ししゅう)画が眠っている。畳2畳大の巨大な画面の全体にさまざまな菊の刺繍が精緻に施されており、明治期の高度な工芸技術で制作された皇室関係の贈答品だと思われるが、由来などを示す記録はなく、正体は不明だ。どのような経緯で英国に渡ったのか、専門家らが調査を続けている。
刺繍画を所蔵するのは、ロンドン南西部のハンプトン・コート宮殿内にある英国王立刺繍学校。額装状態で廊下に展示されているこの大作(縦229センチ、横169センチ)について、現在同校の日本分校責任者を務める刺繍作家の二村(にむら)エミさんが興味を抱いたのは約20年前の同校留学時にさかのぼる。
「当時は日本の刺繍には全く興味がありませんでした。それが留学初日、学校の門をくぐってすぐこの作品を目にした瞬間、なぜだか日本の作品だということが直感的に分かって、大きな衝撃を受けました。これを制作した昔の職人が『日本人であることを忘れずに頑張ってほしい』と語りかけてくるようで」。その強烈な印象が忘れられず、卒業後に二村さんは来歴の調査を始めた。
同校にはこの刺繍画について「19世紀に作られ、日本の皇室から英国王室に贈られたもの」といういわれは伝わっていたものの、由来を示す文書などは残っていなかった。二村さんは作風などから、明治時代に輸出用として制作された日本製刺繍画と推定する。「近世に発展した京都の画壇や刺繍職人は、パトロンだった大名家や寺社が明治維新後に没落したため、販路を海外に求めた。竹内栖鳳(せいほう)ら当時一流の画家が刺繍のための下絵を描き、江戸時代から培われてきた名人の技と合わさって、空前絶後の技術を誇る素晴らしい刺繍画がこの時期に生まれた」。また、当時の刺繍画に詳しい専門家にこの刺繍画の写真を見せたところ、「大きさや緻密さから、刺繍画の全盛期である明治20~30年代の作品では」との指摘を受けたという。
二村さんは1月、こうした調査結果をNHK文化センター青山教室(東京都港区)で催された英国王立刺繍学校のスーザン・ケイ・ウィリアムス校長の来日を記念した講演会で発表。講演会では英国王室に詳しい君塚直隆・関東学院大教授も登壇し、明治期を通じて日英皇室の交流が大いに深まっていった流れを説明。その上で明治35(1902)年のエドワード7世戴冠式に刺繍画の屏風が贈られた例などを挙げ、「このような大作は、普通にやりとりするものではないだろう。王族の誕生祝いや戴冠式、あるいは天皇へのガーター勲章叙勲の返礼などでの贈り物では」として、英王室の慶事に関連した贈答品との見方を示した。
二村さんが同校の古い関係者に聞いたところによると、この刺繍画が英王室から同校に運び込まれたのは1950年代初め。同時期には英国王ジョージ5世(在位1910~36年)の妻で、自ら日本製の刺繍画屏風を購入するなど刺繍好きで知られたメアリー王妃(1867~1953年)が没しており、何らかの関連も考えられるという。二村さんは今後も英王室文書館への問い合わせを行うなど、調査を続けていくとしている。
筆者:磨井慎吾(産経新聞)