Japan-U.K. Veterans meeting at Yasukuni Shrine in 1995 photo by Akiko Macdonald

Japan-U.K. Veterans reconciliation meeting

今年2020年は、戦後75周年の年にあたる。8月15日は、英国ではVJデー(対日本勝利の日)と呼ばれている。 ただ、ビルマ(現ミャンマー)戦に従軍した多くの人々は、私の父と同様辛くて苦痛に満ちた人生を送ってきた。兵士だった彼らの中には戦争について心を開いて話す者もいれば、心を閉じたままの者もいた。

 

私たち戦後世代には、戦争中どの様な事があったのかを明確に想像する事は非常に難しい。

 

英国のVJデーは、主に日本に対する勝利を祝う日である。大英帝国やその植民地の国々、連合軍であったオーストラリアやアメリカは、故郷から遠く離れた東南アジアのジャングルで帝国日本軍を相手に戦った。

 

 

喪失と苦痛を超えて

 

英国などそれら旧連合軍諸国は、5年ごと、あるいは10年ごとにVJデーの記念行事を8月15日に行ってきた。

 

しかし、今年は新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受け、英国政府は大規模な記念行事を行わず、英国公営放送BBCと英政府が共同でこのVJデー記念特別番組を制作し放送することにした。

 

私の父、浦山泰二は、ビルマ戦、インパール作戦のコヒマ戦に従軍した退役軍人である。父は悲惨な戦争から生還した幸運な一人でもあった。戦争が終わって70余年、95歳でまで生きられたが、父と同様、多くの退役軍人たちはもうこの世にいない。

 

そのビルマ戦は、多くの作戦からなっている。私の父が参加したインパール作戦は、最悪かつ悪名高き作戦の一つであった。ビルマとインド北東部での戦闘で約60%の日本兵が飢餓、熱帯地方の数え切れない程の感染症、そして戦闘そのもので命を失った。それは想像を絶する過酷で身の毛もよだつ戦争だった。

 

私たちには、兵士たちの体験は到底想像もできないことであり、理解すら出来ない闘いであった。とりわけ食料や医薬品、銃弾すらも欠乏していた。 これらの糧秣を供給する兵站が致命的な問題で、これは作戦中一度も解決する事が出来なかった。

 

ビルマ戦では、約32万の兵士が投入され、そのうち19万近くの兵士が祖国へ戻る事は出来なかった。 英国側も約4万人が戦死か、病死、あるいは消息を絶ち、母国へ戻らなかった。 ビルマ人は、日本と英国の合計の死亡者数を上回る25万から100万と言われる犠牲者を出した。

 

私はイギリス人と結婚して二人の子供を育てた。英国に移り住み32年が経つ。戦争経験者たちが1983年に英国で設立したビルマ作戦協会(旧ビルマ作戦有志の会)で、日英戦争の和解活動の手伝いを始め、その後、その会長になった。

 

そんな背景があり、BBCから8月15日(英国時間夜8:30~10:00)のVJデー特別テレビ番組に出演することになった。

 

私の役割は、自ら書いた和解についての原稿を朗読してメッセージを発信する事だ。それは非常に短い朗読ではあるが、英国中の視聴者には肯定的なインパクトを与えると信じている。何故なら、この様なテレビの特別番組で、元敵国の軍人の娘が初めてスピーチをする事になるからだ。

 

 

語られるべき多くの物語

 

私はビルマ戦やインド北東部で旧帝国日本軍を敵として戦った多くの英国のベテランたちと出会った。その出会いのお陰で戦争についてばかりか日本や英国の長い歴史についても学びと両国の相互理解に到達する機会が与えられた。

 

私たちは、勝者ばかりではなく、敗者も、戦争によって犠牲者となった人々の物語を聞くべきであろう。 英国に住んでいると、通常は勝者からの見解しか聴けない。しかしながら、インターネットのお陰で最近では好奇心と興味で見解の相違や様々意見に最も興味を抱く人々が出てきている。

 

 

日本ではこの8月15日のBBCの特別番組は観ることはできないかもしれないが、コヒマ戦で戦った94歳の英国人の退役軍人やビルマ戦で日本を敵にして戦った父を持つ世代で和解活動に参加するグループを引き連れて来年帰国できれば、日本の仲間たちにも、この番組の録画をぜひ紹介したいと思っている。

 

私のBBC出演は、ほんの小さな一歩かも知れないが、戦後70年以上が過ぎて現存する文化のギャップを改めて認識し、和解に少しでも貢献が出来ればと希望している。

 

和解を最も効果的に実現するには、両国が戦争で起きた事象を深く理解する事によって相互理解、そして相互に敬意を持つレベルに到達する事が何より大切である。

 

この目的を達成するために、私は大きな夢を持っている。それは和解センターを山形県に設立することだ。山形県は、旧帝国日本陸軍第15軍31師団の佐藤幸徳中将の出身地であり、佐藤中将は1944年のコヒマ戦の激戦地において、玉砕寸前に軍命令に反し、“撤退”を指示した。それは、多くの兵士にとって生死の分かれ目になる勇断だった。そのお陰で、何千という兵士の命が救われたのだ。その中に、私の父もいた。

 

このセンターが出来る事で多くの異なる民族が集まる機会が生まれ、戦争の歴史を学ぶことで相互理解が深まる事になるだろう。

 

さらに、和解センター資料館が設立出来れば、多くの人材発掘や能力開発にも繋がると思う。それは地方の文化・経済などの活性化を促すと同時に、世界からの訪問者や学者、歴史研究家、学生などを受け入れる事で日本の地方に国際感覚をもたらす効果があると考えている。

 

日本人は、英語で発言したり、英語を通して世界の事象を把握したり、英語での議論やディベートをしたりする事が不得手である。しかし、世界の現実は、様々な課題の議論が英語で行われ、競争がある。日本は、立ち遅れている。センターはこれを是正し、英語力の強化を促進し、若い世代の人間形成の育成にも役立つ事と確信している。 戦争の歴史を知る事で世界の平和のあり方を考える場になると信じている。

 

筆者:マクドナルド昭子(日本兵士の娘・英国ビルマ作戦協会会長)

 

 

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