World War II Siberia Soviet Internment Japan 002

World War II Japanese soldiers interned by Soviet Union in Siberia.

 

 

7月、95歳で天寿を全うした大叔父の葬儀に参列した。7人兄弟の6番目。子供がおらず、奥さんを亡くした後は四半世紀近くも一人暮らしだったが、近年はクリスマスのたびにローストチキンや大量のお菓子を抱えてわが家を訪れてくれ、私の子供とともに大変かわいがってくれた。

 

「親族に迷惑をかけたくない」として自身の葬儀費用を業者に前払いし、遺影まで決めていくような立派な人だった。それだけに、新型コロナウイルスの影響で参列者を絞り、大叔父が期待したようなにぎやかな葬送ができなかったことが申し訳なかった。

 

 

僧侶の読経を聞いているとき、ふと生前の大叔父の言葉を思い出した。

 

「お前の本当のじいちゃんが眠るシベリアに、故郷の清水を持っていきたい」

 

大叔父によると、7人兄弟の長男にあたる私の祖父は、大正3年生まれ。若いころは郷里の新潟から上京し、東京・六本木で三輪オートバイを使って運送業を営んだこともあった。髪をオールバックにまとめ、今でいえば、俳優の本木雅弘さんに似たカッコいい兄だったという。

 

しかし、先の大戦で最晩年となる昭和20年の春先に召集された。出征先はよくわからないが、終戦後は旧ソ連によってシベリアに抑留され、そのまま現地で亡くなった。

 

 

大叔父は、新潟県旧片貝村(現小千谷市)の駅から、当時31歳だった祖父が出征する場面を鮮明に覚えていると語っていた。

 

「駅には、昭和19年に生まれたばかりのお前のおやじを背負った嫁さんが見送りに来ていた。結婚は前の年だったから一番幸せな時期だよ。兄さんは汽車のデッキに立ったまま、嫁さんと子供を見ながら、ただただオンオン泣いてな‥」

 

未亡人となった祖母は大叔父兄弟の四男と再婚し、養子縁組した私の父はこの家族で大切に育てられた。

 

今回、大叔父の死去にあたり、祖母が相続のために取り寄せた水内一族の戸籍謄本を見る機会があった。そこに記されていた祖父の欄に目が留まった。

 

昭和20年12月25日時刻不明ソ連コムソモリスク地区コムソモリスク収容所で死亡新潟県知事報告昭和23年4月1日受付除籍(原文の年月日は漢字)」

 

初めて知った事実だった。祖父は出征から1年にも満たない終戦4カ月後のクリスマスに、極寒の収容所で亡くなっていたのだ。

 

コムソモリスクは、ロシア極東・ハバロフスクから列車で10時間ほど北東に走った先にある工業都市だ。もとは原野だったが、旧ソ連がアムール川沿いの地の利を生かして造船所や製鉄所、飛行機工場などを作り、日本人の強制抑留者も住宅や鉄道建設などに従事させられたという。祖父が亡くなった12月の平均気温は、マイナス20度を下回っていたはずだ。

 

厚生労働省は、平成3年に旧ソ連のゴルバチョフ大統領(当時)が来日して以降、旧ソ連やロシアが日本政府に引き渡した強制抑留死亡者の名簿を公開している。検索すると祖父の名前が見つかり、亡くなったのが「第18収容所・第5支部コムソモーリスク地区」であることも分かった。名簿によれば、同じ収容所で202人の日本兵が死亡している。

 

 

父はこれまで、祖父のことをあまり語りたがらなかった。今回私が確認したことを電話で伝えると、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「小さな頃、おやじの遺骨が帰ってくるというので、親族に肩車されながら駅まで迎えにいったことがある。到着した汽車から、白木の箱を抱えた母が降りてきたのを覚えている」

 

ただ厚労省が公開している名簿によれば、「第18収容所・第5支部コムソモーリスク地区」で収容した遺骨は一柱もない。父も白木の箱の中身を確認したわけでなく、本当に祖父の遺骨が帰国したのかどうかはよくわからない。

 

政府は名簿の提供を受けた平成3年度から、旧ソ連での遺骨収容作業を行っている。しかし、同省社会・援護局によると、約5万人以上いたと推計される旧ソ連の日本人強制抑留者の死者のうち、今年までに政府が遺骨を収容したのは1万8千750柱、戦友らが個別に持ち帰ったのは約1千400柱だ。政府が収容した遺骨のうち、DNA検査などで身元が判明し、遺族のもとに帰ったのは1144柱しかない。

 

同局は今年も現地で遺骨収容事業を計画したが、新型コロナウイルスの感染拡大で延期となった。シベリアは9月以降急激に寒くなるため、今年はこのまま中止となる見通しだ。毎年遺族を対象に行っている抑留地の慰霊訪問も、今年は難しいという。そもそも、遺骨収容事業や慰霊訪問に参加を希望する遺族の人数自体も、戦後75年が経過した今は減りつつある。

 

祖父は、出征先へ向かう汽車のデッキから妻と幼子を見たとき、どんな思いで泣いたのだろうか。「コムソモリスク収容所で死亡」という一節を読んだときに感じたのは、おそらく、今年76歳になった父も、祖父の血を引く私も、まだ戦後にけじめがついていないということだ。

 

実家の近くには、祖父も飲んだであろう石清水が今も湧き出ている。父が元気なうちに、大叔父の遺言を果たさなければ。

 

筆者:水内茂幸(産経新聞政治部次長)

 

 

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