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映画「ラストエンペラー」で知られる清朝最後の皇帝「宣統帝」、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が1912年2月に退位してから12日で110年。溥儀の没後55年となり、中国大陸や日本をめぐる激動の時代の記憶は薄れつつある。溥儀から遡(さかのぼ)ること9代、清朝第3代皇帝、順治帝の末裔(まつえい)といい、都内で眼科医院の院長を務める愛新覚羅維(い)さんに、清朝や日本への思いを聞いた。
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1644年から1912年まで270年近く、中国大陸とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝、清朝をつくり上げた満州族が数多く暮らす遼寧省。その省都・瀋陽で生まれた維さんは、地元トップの有名校、東北育才学校から名古屋大医学部に進んだ。
「18歳で日本に来て『ラストエンペラー』を初めて見ました」という。溥儀の自伝を基にした米英仏伊中5カ国の合作映画で、87年(日本では88年)に公開された。史実とは異なる演出が何カ所もあるが、日本が深く関与した時代の空気が映像から感じ取れる。
中国が文化大革命で混迷していた67年、10月17日に逝去した溥儀について維さんは、「時代に翻弄された方。皇帝として葛藤もあったでしょう。改めて(溥儀を通して)私は満州族と清朝の誇り高き歴史に思いをはせています」と話す。
維さんは祖父から第3代皇帝、順治帝に連なる家系について聞かされた。清朝の軍事行政組織「八旗」では「正黄旗」に属するという。「大好きだった祖父は愛新覚羅の一族としてちょうど、溥儀と同世代。サングラスをかけたら溥儀そっくりでしたね」と言いながら写真をみせてくれた。
ただ、文革時代、清朝に連なる家系は迫害を受ける懸念もあり、まして「愛新覚羅」という姓は目立ち過ぎた。「祖父は一時期、一家の姓を漢民族風に変えていたのですが、私が子供のころ、家族そろって『愛新覚羅』の姓に正式に戻りました」と明かした。文革後に経済成長が軌道に乗った1990年代のことだ。
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維さんは「愛新覚羅」という姓について〝半生〟を振り返って「中国でも特別扱いされることはなく、何もプラスになった記憶はありませんね。むしろ学校の試験で答案用紙に名前を書くとき、同級生より少し時間がかかったかな」とちゃめっ気たっぷりに言う。
困った経験もある。「眼科医になった後、学会出席のため出張した米カリフォルニア州サンディエゴの空港で、入国管理官に止められて『あなたは清朝皇帝の一族か?』と聞かれたのでうなずくと、別室に連れていかれそうになって大騒ぎになりました」という。
パスポートには漢字の本名に加え、英字表記の「Wei Aixinjueluo」との記載もある。
説明を重ねて事なきを得たが、維さんは「白人の係官が(愛新覚羅の英字表記)『Aixinjueluo』に反応したのに驚きました。ちゃんと米国の入国ビザ(査証)もあったのに、まさか〝亡命〟するとでも勘違いされたんじゃないかな」と振り返った。
中学生のころから日本語を学んできた維さん。大学進学で留学先を日本か、米国かと悩んだが、「中国の東北地方と日本は関係も深い。ずっと日本に興味があったし、両親から距離的に瀋陽とも近い日本行きをすすめられた」。その上「親族に医者が多く、子供のころから憧れていた」ことから、医学部をめざした。
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名古屋大医学部を卒業して東京大医学部の付属病院で臨床研修を受け、同病院や東京逓信病院で眼科医として勤務した維さん。角膜に関する研究で東大から医学博士号も得た。2018年に東京都品川区の「アイクリニック大井町」院長に招かれて就任。「おかげさまで3人の子供にも恵まれました」といい、すっかり日本生活になじんでいる。
中国の一人っ子政策で兄弟姉妹のいなかった維さんは、両親を瀋陽から東京に呼び寄せ、3世代7人で暮らす。「両親に世話を手伝ってもらっている11歳から3歳までの子供3人は、両親とは中国語、私とは中国語と日本語、夫とは日本語で話してます」と言って家族写真を見せてくれた。
維さんは母親から「どんな人でも良い面を見るように教えられて育った」といい、「患者さんと接するとき、いつも話がはずむのもきっと母親譲り」と考えている。3人の子育をしている経験から、小さな子供の診察も得意。「日本に来て大学の先生や先輩、同級生や周りの人はみんな親切で留学生活は楽しかった。明るくて前向きな性格なんですよね、私」と笑った。
「患者さんに喜んでもらう治療を通じて、日中の人と人のつながりを、できる範囲で広げたい」と、大きな2つの瞳を輝かせた。
眼科もむろん、新型コロナウイルスの感染症と無縁ではない。「ウイルスが付着した手で目の周りをさわると、眼球から感染する懸念がある。手洗いや消毒に加え、目がかゆいときはティッシュを使うなどして予防してくださいね」と今度は鋭い眼光で諭された。
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溥儀は15歳のころ、スコットランド出身の英語教師ジョンストンのすすめで眼科医にかかり、近眼と診断されて眼鏡を作った。溥儀の自伝によると、歴代皇帝が暮らした紫禁城(故宮)ではこの当時、「皇帝(溥儀)の目はお若くて元気。外国人(眼科医)などに見せられるものか」と、太妃らはみな賛成しなかった。結局、溥儀がどうしても眼鏡を作ってほしい、と訴え続けて周囲が折れた。
溥儀といえば、丸い眼鏡をかけている写真を思い浮かべる人も多いだろう。21世紀の日本で、愛新覚羅一族の女性眼科医が、博士号まで得て活躍していると聞いたら、溥儀はどう話すだろうか。清朝と日本、そして満州、新中国。歴史の糸はなおも結ばれている。
筆者:河崎眞澄(産経新聞論説委員兼特別記者)