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「妹のようでもあり、とてもしっかりしていたので先生のようでもあり」
平成14年に帰国した拉致被害者の曽我ひとみさん(65)は、5歳下の横田めぐみさん(59)=拉致当時(13)=への思いを明かす。「自分は一人じゃないんだと感じられる、心強い存在だった」
2人は北朝鮮で一時、共同生活を送っていた。
かわいいえくぼで
曽我さんは19歳だった昭和53年8月、生まれ育った新潟・佐渡で拉致されたのち、平壌近郊の万景台(マンギョンデ)招待所に収容された。そこには前年に拉致されためぐみさんがいた。
「『こんにちは』って、かわいいえくぼを見せてあいさつをしてくれて」。めぐみさんは、曽我さんの足のすり傷を気にかけた。母のミヨシさん(92)=同(46)=とともに工作員に襲われたときに負ったものだった。
経緯を打ち明けると、「めぐみさんも『私も部活の帰りに捕まってここにいる』と。こんなに小さな子がなぜこんなところにいるのか不思議だったが、お互い同じ境遇だと理解した」。
目線だけの再会
招待所では監視役の指導員が目を光らせていた。昼間はできるだけ朝鮮語を使い、夜にこっそり日本語で会話を重ねた。童謡の「紅葉」や「故郷」を声をひそめて合唱したこともある。
対照的だったからよく覚えているのは、母親の「香り」の記憶。めぐみさんは「お母さんは、香水のいい匂いがするの」。ミヨシさんは工場勤めで機械油の臭いがしていた。「全然違うねって、笑いあった」という。「双子の弟たちがいることも教えてくれて、『とってもかわいいんだよ』と自慢していた。当たり前だが、家族を恋しがっていた」と振り返る。
何度か別々の招待所に分かれながら、計8カ月ほど一緒に暮らした。1980年5月ごろに離れ離れになり、最後にめぐみさんを見かけたのは86年ごろ。平壌の外貨ショップで買い物をしていたときに偶然、出くわした。
「走って抱きしめて再会を喜びたかった」が、指導員の監視下にありかなわなかった。「目は合った。元気そうだったから安心したけれど、つらい時間でもあった」
言わされている
北朝鮮は2002年9月の日朝首脳会談で、めぐみさんは「死亡」と一方的に主張。その後、「1993年3月に病院で精神障害のため自殺」などと詳細に伝えてきた。だが、のちに死亡時期を94年4月と訂正したほか、物証として提出した「遺骨」が偽物だったことも判明。現在に至るまで死亡を裏付ける客観証拠は、何もない。
安否を巡り、曽我さんも北朝鮮の謀略に触れた経験がある。
日本への帰国当日、平壌の空港にめぐみさんの娘のウンギョンさんが見送りに来ていると、北朝鮮側から伝えられた。「めぐみさんの面影があり、すぐに分かった」。抱擁の後で尋ねた。「お母さんは?」
ウンギョンさんは「亡くなった」とつぶやいた。目を合わせず、自分の腕の中で泣いていた。直感した。「誰かに言わされている」
北朝鮮はウンギョンさんの説明を帰国被害者経由で横田家などに伝えて「死亡」を既成事実化し、拉致問題全体の幕引きを図ろうとした狙いが透ける。曽我さんは「あのとき、『めぐみさんはどこか別の場所にいるのだろう』と強く思ったのを覚えている」と回顧。そして、「めぐみさんは今も絶対に生きている」と言い切る。
北朝鮮はミヨシさんについては入境さえ認めていない。だが、自分と一緒に襲われた母だ。「北朝鮮にいないなら、どこにいるというのか」
会いたい人は2人いる。諦めないで、元気でいて。思いはひとつだ。
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2024年10月4日付産経新聞【60歳になっためぐみちゃんへ(中)】を転載しています
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