
長崎半島の沖合いに位置する“全長”480メートルの「端島」(通称・軍艦島)。沈む夕日が廃墟の島を照らし出していた=長崎市端島
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2009年7月26日付の産経新聞に掲載した連載「探訪」のアーカイブ記事です。肩書、年齢、名称などは掲載当時のまま。
桟橋に打ち付ける波音だけが響く「封印された島」は、「昭和」で時が止まっているようだった。
「軍艦島」。長崎半島の沖に浮かぶ周囲約1200メートルの島は、かつて海底炭鉱で栄えた。長崎市に属し、正式名を「端島(はしま)」という。島影が戦艦「土佐」に似ていたことからそう呼ばれている。

軍艦島は2009年1月、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産の暫定リストに入り、4月には上陸観光が解禁された。長崎市によると予想を上回る人気だという。

軍艦島の歴史は明治初めまでさかのぼる。昭和49年の閉山まで、採掘された石炭は約1570万トン。採掘現場は海面下1千メートルまで及んだという。最盛期の人口は約5300人。人口密度世界一の島だった。

炭鉱の労働は過酷だったが生活は豊かだった。20代を島で過ごした、長崎市の熊正五郎さん(72)は「テレビや洗濯機、何でも一番よか品物ば買いよったもんね」と当時の暮らしぶりを懐かしむ。さらに「毎週、長崎まで連絡船で遊びに行きよった」とも。他の職種では、どんなに残業をしても、炭鉱での収入にはかなわなかったという。
学校や病院、高層アパート、パチンコ店、映画館…。上陸してみると、建物は崩れ落ち、かつての海上都市は荒れ果てていた。だが、「廃虚の島」が日本の近代化を支えた貴重な存在ということは間違いないだろう。
忘れられていた軍艦島は、産業遺産として新しい時を刻み始めている。
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