
宮城県女川町の離島、出島(奥)と本土(左手前)を結ぶ「出島大橋」。島の周りには好漁場が広がっている(産経新聞社チャーター機から、桐原正道撮影)
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東日本大震災で大きな被害にあった宮城県女川町。昨年12月、離島の出島(いずしま)と本土の間に橋がかかった。出島大橋。全長364メートル。陸続きになることは島民の悲願だった。
震災の津波は島沿岸部を襲った。集落と漁港が壊滅し、25人が犠牲になった。住民は翌日、ヘリコプターで島から避難した。
架橋は50年近く前から待ち望まれてきた。なかなか進まなかった事業だが、震災を経て進展した。

開通後、島の暮らしは大きく変わった。これまで島と本土を結ぶのは1日3便の定期船だけだったが、島民は「時間を気にせず町まで行ける」「子や孫と会いやすくなった」と喜ぶ。
島の主要産業である漁業にとってもメリットは大きい。対岸の漁港まで船で運んでいた養殖のギンザケやホタテは、陸路で運べるようになった。燃料代も大幅に浮くと島の漁師は口々にいう。

カキ養殖の武山孝広さん(52)は「体も楽になった。高齢の漁師たちも続けていきやすくなったのではないか」と話す。
離島では急病人が出たら、海が荒れていても誰かが船を出さなければならなかった。サイレンを鳴らした救急車が島に来たとき、武山さんは「命を救う橋」だと実感したという。

ただ、人口は震災前の500人から90人に落ち込んでいる。
「もっと早く橋ができていればここまで急激に人口は減らなかった」
寺間地区の区長、須田菊男さん(76)は話す。小中学校が閉校し、若い世代は島外に移り住んだ。島を仕事場にしている漁師たちも通えるようになり、住む必要性は少なくなった。

「それでも夢は広がる。島の自然を楽しめる遊歩道を整備して、外の人を呼び込んでいきたい」と須田さん。橋の開通と同時に島に移住してきた若者がサウナをオープンするなど新たな動きも出てきている。
震災から14年。
島名の由来は「日が出(い)ずる島」ともいわれる。
日はまた、昇る。

筆者:鴨川一也(産経新聞写真報道局)
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