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浮世絵師、葛飾北斎(1760年9月23日~1849年4月18日)は、江戸時代の日本人としては超がつくほど長寿の90年におよぶ生涯で、恐らく80年は絵筆を取り続けた。
1834(天保5)年に発表した『富嶽百景』の後書きに、自ら「己六歳より物の形状(かたちルビをふる)を写すの癖(へきルビ)ありて」と書いているし、絶筆にもっとも近い一枚と思われる肉筆画『富士越龍図』が完成したのは亡くなる4カ月ほど前のことだ。
北斎は朝起きると夜寝るまでひたすら描きつづけ、お腹がすけば蕎麦をすすり、疲れて眠くなればゴロンと横になる、そんな日々を送ったのだった。
作品は描きも描いたり、3万点を下らない。幕末から明治維新に至る日本社会の激動期には、多くの浮世絵が内外で流出・散逸したため、北斎の未知の作品は今なお発見され、ニュースになる。まるで天上から北斎が「忘れてくれるなよ」と言っているみたいではないか。
作品数が多いことに加えて、北斎は目に入るものすべて、何もかもを描いた。それは代表作『北斎漫画』を見れば一目瞭然で、対象は森羅万象に及んでいる。大御所然と、気難しく選り好みなどしない。恐らく北斎には物の形状のすべてが面白く、だから絵になる。好奇心の塊なのだ。
『富嶽百景』発表の際に名乗った雅号は画狂老人卍という。絵に狂っちゃっていることを自ら認めているわけだ。しかし功徳円満を意味する卍を後ろにつけるところに北斎のウィットが感じられ、なかなか隅に置けない。
ちなみに北斎は93回と伝えられる引っ越しほどではないが、19歳で勝川派に入門し、勝川春朗の名で浮世絵師デビュー以来、俵屋宗理、北斎辰政(ときまさルビ)、戴斗、為一(いいつルビ)、葛飾北斎、画狂老人など等、雅号も次々に変えた。一つの雅号や流派にしがみつくような絵師ではなかった。
このほど私は人間・北斎に焦点を当てた『江戸のジャーナリスト 葛飾北斎』(国土社)を上梓した。「江戸時代にジャーナリストなんていたの?」と突っ込まれそうだが、長野県小布施町にある「画狂人・葛飾北斎の肉筆画美術館 北斎館」で、名だたる美女、小野小町の落ちぶれた白髪老女像の屏風を見た瞬間、その冷めた眼差しとリアリズムに「まるでジャーナリストみたいだ」と感じ入った。そしてこれが切っ掛けになって、上述したような北斎の人となりや暮らしぶり、画業の足跡を辿る中で、この肩書を北斎にどうしても献上したくなったのである。
もともと江戸中期、18世紀後半に黄金期を迎えた浮世絵は、憂き世・浮世の名の如く、世の中の風俗や風習、世相、人々を題材とし、愛好者も町人や庶民たちが中心だ。今風に言うならばジャーナリスティックな要素が強い。中でもそれをもっとも体現したのが北斎だと言える。
例えば東海道五十三次と言えば歌川(安藤)広重が有名だ。しかし北斎も描いている。そして2人の画風は対照的に思える。抒情溢れる美しい絵葉書のような広重の東海道に対して、北斎のそれはもう少し世俗的だ。街道の賑わいなどに目が注がれ、旅人たちのお喋りまでが聞こえてくるような気がする。
戦乱の世に終止符を打ち、平和と安定が日本史上でももっとも長く続いた江戸時代は、日本人の旅好きに拍車がかかり、一大旅行ブームが到来した。伊勢のお陰参りなど、店の前で掃除をしていた小僧が、箒を放り投げお参りの行列に加わってしまったという。北斎の『東海道旅行』と題する渡し場の絵は、人物の表情が生き生きとして躍動感があり、旅の楽しさにあふれている。
北斎は世の動静をジャーナリストさながらにタイムリーに捉え、的確に表現し、伝えたのである。北斎自身、旅が大好きだった。だからこそ80代も半ばを過ぎて江戸から250キロも離れた信濃の国小布施へ、分かっているだけで4回も出かけ、多くの肉筆画の他、祭屋台や寺に『龍』や『鳳凰』、『怒涛図』、『八方睨みの鳳凰図』という見事な天井絵を遺し、往時の小布施の繁栄を今に伝えている。
北斎が伝えたことは他にもまだまだある。周知のように徳川幕府はいわゆる「鎖国」体制を敷いたが、オランダ商館からの注文で描いた浮世絵の数々はヨーロッパに渡り、「世界の北斎」の礎となった。好奇心一杯の北斎は商館長の江戸参府の折りの常宿にも出向いたはずだ。商館長と常宿、それを覗き込む江戸の野次馬たちを描いている。絵からは「鎖国」体制がやがて崩れて行く気配さえ伝わってくる。
東洋美術の研究家、アーネスト・フェノロサは最初、北斎を酷評した。ところが北斎の絵に実際に数多く接する中で評価は絶賛へと変わり、遂には浮世絵界で《唯一人、荒野に叫ぶ予言者の如く》とまで評した。
私は予言者に加えて、北斎は「時代の目撃者」であったと思う。人間・北斎を知り、その作品を見ていると、北斎の「世界を見尽くしてやろう」との気迫が伝わってくるのである。
著者:千野境子(ジャーナリスト)