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裁判官は国民の価値観を決められるほど、賢い存在なのだろうか。
先日の札幌高裁の判決は、実質的に、同性婚を認めるように民法および戸籍法の改正を国会に命じるものであった。結婚は歴史的に男女間のみに限定されてきたが、現在では、そういう価値観は非合理的になったというのである。
「同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民も少なからずいる。もっとも、これらは、感情的な理由にとどまるものであったり、異性婚との区別について合理的に説明がされていなかったりするものである」
つまり、結婚は男女のものだという考えは、理性的な人間ならば否定すべき迷信に過ぎない、というのだ。同性が結婚するのは不自然だという価値観を心の中に抱くだけでも、天動説を信じる者であるかのように扱われるのだ。その根拠は何か。判決では、憲法13条(個人の尊重、幸福追求の権利)、24条1項(両性の合意に基づく婚姻)と2項(個人の尊厳、両性の本質的平等)、14条1項(平等権)という観点から、「合理性」に基づいて結論を導いた。同性婚を認めない法律は「合理的な根拠を欠く」もので、違憲であり無効であると。
「合理」「合理」…裁判官はすべてをこの言葉で説明するが、しかし、人間とはそんなに合理的な存在だろうか。何が正しくて、何が正しくないか、道徳や倫理上の問題を突き詰めていくと「合理的な」論理では説明がつかないということを裁判官たちは知らないようだ。
例えば、日本でも有名な1912年の客船タイタニック号沈没事故。男性よりも子供や女性を優先して救うことに誰も疑問を抱かなかったが、その順位付けは「合理的」だったのだろうか? なぜ例えば、一番強くて賢い者が優先ではなかったのか? ただの合理から答えは導けない。タイタニック号の乗組員や乗客は、論理ではなく、何世紀にもわたって培われてきた倫理的本能に基づいて行動したのだ。
筆者:スティーブン・ギブンズ(米弁護士)