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極寒の地、サハリン島(樺太)北部沿岸。白銀の世界でアイヌの少女アシリパがお椀に入れたオハウを口に入れ、「ヒンナヒンナ」とつぶやく。
明治時代後期、北の大地・北海道や樺太を舞台にした人気漫画「ゴールデンカムイ」(集英社・野田サトル著)17巻の一コマだ。オハウはアイヌ語で「温かい汁物」を意味し、ヒンナは食べ物への感謝の意を示す。
アシリパの一行は樺太の現住民ニブフ族の船に乗り、オホーツク海に生息する1頭のシロイルカ(ベルーガ)の狩猟に成功する。流木を集めて火を焚き、大鍋にシロイルカの生肉を放り込んで、ぐつぐつと煮込む。ジャガイモ、干したギョウジャニンニク、ニリンソウを添えた栄養バランスの取れた食材。少女アシリパは、一緒に冒険をする日露戦争の英雄、杉元佐一が残した味噌を「曲げわっぱ箱」に入れて持ち歩いており、味噌で味付けをする。ほかほかにできあがった和風「くじら汁」は、寒空の下で食を取る一行の胃袋を満たし、登場人物たちが「ヒンナヒンナ」と言い合うのだ。
コミックスの巻末にはまるで学術論文に用いられるような、アイヌ文化関係の参考文献がずらりと並ぶ。作者の野田さんは綿密な取材に基づき、一コマ一コマを丹念に描いており、作品が2018年に第22回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した際のインタビューでも「アイヌ文化に対して謙虚な気持ちで、知ったかぶりはせず可能な限り専門家にこまめに確認」して、創作活動に打ち込んでいることを明かしている。
ゴールデンカムイの漫画では、アシリパが北海道の野生動物を狩猟したり、野草を採取したりして、自然の恵みをオハウにして食べるシーンがたびたび登場する。「くじら汁」も数あるメニューの一つ。クジラはアイヌ語で「フンぺ」といい、アイヌ民族も日本人と同様、クジラを余すことなく生活の中に取り入れてきた。
北方民族と捕鯨の関係に詳しい北海道立北方民族博物館(網走市)の元学芸員、渡部裕さんによれば、アイヌ民族は海岸に漂着した「寄り鯨」の肉や脂肪を食料として利用し、栄養源としてきたという。もちろん食用以外でも、クジラのヒゲはアイヌの海船である板つづり船の結束材として使ったり、脊柱周辺の筋腱を糸や紐、弓の弦に用いたりして、重宝した。
北海道アイヌは鯨肉を乾燥させて保存食とすることもあったが、渡部さんは「北方地域の民族では概して鯨肉は焼くのではなくて煮て、調理することが普通だった」と語る。
さらに、20世紀前半のロシア人研究者の聞き取り調査により、樺太や間宮海峡をはさんでユーラシア大陸の沿岸に住むニブフ族もオホーツク海の一部に生息するシロイルカの脂肪や肉を好んで食べていたことも記録として残っている。
日本鯨類研究所で長年にわたって調査捕鯨に携わり、クジラの生態に詳しい獣医師、石川創さんは「北極圏を中心にシロイルカの生息範囲は広い。狩猟は比較的簡単で、北方民族の食糧としては現代でも大きな割合を占めている。ビタミンCが豊富に含まれる脂皮は、当時でも珍重されたはずだ」と解説する。
こうして専門家の話を聞くと、アシリパたちが食べたくじら汁は狩猟の実態も調理方法も限りなく史実に基づいて作られた料理だったことがわかる。海洋を勇壮に泳ぐクジラが自然環境の厳しい北方民族のスタミナ源になってきたことを考えると、歴史のロマンをかきたてられる。
北海道北広島市出身の野田さんは2014年に週刊ヤングジャンプでゴールデンカムイの連載を開始した。北の大地を旅しながら、埋蔵金を探しあてるストーリーは人気を博し、24巻まで創刊されたコミックスはシリーズ累計1500万部を突破(2021年1月時点)。テレビアニメも放映され、北海道にゴールデンカムイの聖地めぐりをする観光者も増えた。
アイヌ民族だけでなくニブフ族やロシア人らが食していた家庭料理が次々に紹介されるのもこの漫画の魅力の一つで、読みながらついついそのメニューを食べたくなってしまう。
アイヌ民族については、昨年7月、歴史や伝統文化を学べる民族共生象徴空間「ウポポイ」の施設も北海道白老町にオープン。アイヌの暮らしぶりや文化芸術を知ろうとする人々の関心は高まっている。このブームに合わせ、昨夏、味の素グループの関係会社「北海道味の素」(札幌市)がアイヌ文化の継承を食を通じて貢献したいと考え、味の素の「ほんだし」で作る現代風オハウのメニュー開発を行った。アイヌの伝統料理を家庭で手軽に作ってみませんか、というわけだ。
アレンジしたのは8メニュー。そのうちの一つ、くじらオハウのレシピは、なじみのある竜田揚げとけんちん汁を参考に作られた。一昨年に商業捕鯨が再開。新たな形で鯨肉が市場に流通し始めたこともあり、「若い世代に鯨肉を使った簡単な調理方法も提示したかった」(同社管理栄養士)との狙いもあった。
レシピに基づき、取材班でもさっそく調理してみた。食材はすべてスーパーで手に入る。用意したのは商業捕鯨で捕れたニタリクジラの背肉。薄切りにして料理酒をふって、しょうゆやショウガをもみこんで、片栗粉をまぶす。そして、両面焼き色がつくまでじっくりと焼く。次に、いちょう切りにしてさっと炒めた大根、にんじん、ごぼうを煮て、ほんだしで味付け。最後に調理した鯨肉を汁に入れて、「くじら肉のかんたんオハウ」ができあがった。
いただきます!外出から戻り、冷え切った身体に鯨肉の温かいエキスが染み入る。「ヒンナヒンナ」―。食卓でみんなの笑顔が広がった。食材や調理法は違うがきっとアイヌやニブフの民たちも、寒さ厳しい真冬にこうしてパワーをつけたに違いない。
ヒゲクジラは半年をえさ場で、残りの半年をほぼ絶食状態で子育てをし、数千キロも不眠で泳ぎ続ける。このパワーの源が赤肉に多く含まれる「バレニン」と呼ばれる成分だ。近年の研究で、このバレニンが人間の疲労感を解消することに役立つことがわかってきた。
さらに最新研究では、バレニンが認知症の予防に効果をもたらす可能性があるという調査結果も発表された。2018年夏に、星薬科大先端生命科学研究所ペプチド創薬研究室の塩田清二特任教授らが実験データから導き出したもので、バレニンを含む鯨肉抽出物の摂取はストレスを軽減し、認知症の進行を抑制、改善する可能性が高いのだという。
「実験により、バレニンの摂取はアルツハイマー病モデルマウスにおける記憶力低下を抑制した。さらに、抗うつ状態や仕事作業効率の改善や集中力増加などにも効果をもたらすことが分かった。さらなる詳細な解析を行うためには、規模を大きくして臨床実験を行うことも必要である」と塩田特任教授。今後、バレニン摂取による免疫効果の研究を進めることも明らかにした。
精神的ストレスや肉体疲労が蓄積する現代社会において、心と身体の健康は活力ある明日を迎えるために何よりも重要だ。1~3月は進学のための入試シーズンでもある。受験生にとってパワーをつけるために、鯨肉はもってこいの食材と言えるだろう。
ゴールデンカムイで、アイヌの少女アシリパと杉元佐一の冒険はまだまだ続く。今度はどんなシーンでアシリパが「ヒンナヒンナ」とつぶやくのだろう。ストーリー展開ももちろんだが、食欲をそそる料理の紹介も楽しみに待ちたい。
筆者:佐々木正明(産経新聞)
提供:一般財団法人日本鯨類研究所