「李登輝さんと私」中国にははっきりモノを言え

唯一の日本人特派員

 

台北に特派員として赴任したのは、1991年1月に湾岸戦争が勃発した直後だった。李登輝(り・とうき)さんが蒋経国(しょう・けいこく)の後を継いで総統に就任して、すでに3年が経過していた。だが当時、台湾にはまだ蒋介石(しょう・かいせき)夫人の宋美齢(そう・びれい)がいて、中国大陸から来た外省人のシンボル的存在として君臨していた。行政院長(首相に相当)には軍出身の外省人、●(=赤におおざと)柏村(かく・はくそん)がデンと構えていて、台湾というより、文字通り“中華民国然”とした時代だった。

 

李登輝さんの最大の功績は、こうした中華民国的社会、つまり10%そこそこの外省人が、85%の台湾人を支配するいびつな戦後構造を、弾薬ではなく投票用紙を使ってひっくり返したことだ。

96年に自らが選出された総統直接選は台湾初と形容されるが、中国大陸やシンガポールを含む華人社会における長い歴史の中で、いまなお、他では実現したことのない民主主義選挙の初の成功例であった。独裁しか経験したことのない華人社会で不可能を可能に変えた功績は、華人社会の今後に重大な示唆を与える。

 

91年に赴任したのは幸運だった。それまでは総統とはいえ、台湾人の李登輝さんにとってはまだ、韜光養晦(とうこうようかい=爪を隠して力を蓄える)の時期であったのだと思うが、赴任と時を同じくして、李登輝さんの台湾化大作戦が本格化した。

 

まず憲法から不都合な条文を外し、同年9月に宋美齢が米国へ移住するや、40年以上にわたって議席を維持し、多数派を形成してきた外省人の万年議員を、多大な勇退慰労金を餌(えさ)に全員引退に追い込んだ。

 

こうして翌年末の立法院(国会に相当)選挙では台湾人が初の多数派を占める議会を作り上げ、これによって●(=赤におおざと)柏村の行政院長再任の野望を防ぎ、辞職に追い込んでいく。国民党の副主席ポストを望んだ●(=赤におおざと)柏村には、受諾を匂わせながら93年の党大会で副主席を一気に4人に増やして、その1人に過ぎない存在に落とし込んでしまう。この見事な手際を私は、台北で唯一の日本人特派員としてみることができたのだった。

 

学者然とした李登輝さんだが、単なる学者ではあり得ない。96年の選挙にこぎ着けるまでには外省人パワーの削減計画を緻密に練り上げ、真の権力を台湾人たる自分にもたらした。その力で直接選挙を実現させたのだが、これこそは外省人支配の国民党の中で生き抜いてきた経験から体得した政治技術ともいうべきもので、余人には望むべくもない。が、日本には参考になる次のような事例がある。

 

94年3月に千島湖(せんとうこ)事件が起きたときのことである。これは中国浙江省の千島湖で遊覧船が放火され、台湾人観光客24人が焼死した事件で、中国側の人権無視の対応に遺族をはじめ台湾側が怒りを募らせたとき、当時の李登輝総統が「(中国)大陸は文明国家ではない」「土匪(どひ=土着の匪賊)と同じだ」と輪をかけた怒りの談話を発表したのだ。

 

台湾への武力侵攻を標榜(ひょうぼう)する中国を相手に、台湾内部でもさすがに懸念の声が高まった。私は唯一の日本人特派員の特権で、総統府で李登輝さんに直接真意を尋ねた。私もあまり刺激しないほうが、と言いかけたのだが、李登輝さんはそれを遮るように「それはダメだ。相手に非のあるときは、はっきりモノを言う。これが中国人には効くのだ」の一点張り。

 

その時は半信半疑で帰ったのだが、この直後、中国は掌を返したように刑事責任を全面的に認め、李鵬(り・ほう)首相(当時)が「犠牲者の遺族にお見舞いと哀悼の意を表明する」との談話を発表するに至り、李登輝さんの読み筋通りの結末を見たのであった。

 

これも外省人を通して中国人の何たるかを知り抜いた経験を持つ者のワザの冴(さ)えと言うべきものであろう。中国を刺激せずを以(もっ)て尊しとなす、とする戦後日本にとっては、これこそ以て教訓となすべき事柄なのではあるまいか。

 

筆者:吉田信行(よしだ・のぶゆき)

1964年産経新聞入社。ソウル支局長を経て編集長。91~94年に台北支局長。論説委員長を経て2005年退社。78歳。

 

 

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Nobuyuki Yoshida

Author:

Mr. Nobuyuki Yoshida (78) joined The Sankei Shimbun in 1964. After serving as Seoul Bureau chief, he became editor-in-chief of the newspaper. From 1991 to 1994 Mr. Yoshida was chief of the Taipei Bureau. He retired from The Sankei Shimbun in 2005, after serving as chief editorial writer.

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