モスクワ音楽院前にあるチャイコフスキー像(山口克志撮影)
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ロシアの作曲家、チャイコフスキー(1840~93年)の大序曲「1812年」の演奏を見送る動きが、日本各地の楽団で広がっている。ロシアの戦争勝利を祝った曲でもあり、同国のウクライナ侵攻で世界的な批判が集まっている状況下では、世相にそぐわないと判断されたためだ。「作品やチャイコフスキーに罪はない」。判断には賛否もあり、難しいかじ取りを迫られる楽団関係者。共通の願いは、気兼ねなく1812年を演奏できる日が来ることだ。
「チャイコフスキーに罪はないのだが…」。2月末、滋賀県立びわ湖ホール(大津市)の沼尻竜典(りゅうすけ)芸術監督が、今春に開かれるクラシック音楽祭の記者会見で表情を曇らせた。
プログラム上、音楽祭を締めくくるのは大阪フィルハーモニー交響楽団が演奏する1812年。同年にナポレオン率いるフランス軍を打ち破ったロシア軍の戦いを、鐘や、ときには大砲を用いて勇壮に描き出す名曲で、クラシックファンにとどまらない人気を集める。だが沼尻氏はイベントのラストを飾る予定だった1812年に触れ、「これはちょっと今、相談中なんです」。緊迫する国際情勢を受け、曲目の変更を検討中と明かした。
「気兼ねなく演奏できる世の中に」
すでに演奏取りやめを決めた楽団もある。
21日に開催予定の定期演奏会で同曲を演奏予定だった明石フィルハーモニー管弦楽団。ホームページやツイッターで、「ロシアがウクライナに侵攻した世情を踏まえ、演奏を中止することとなりました」と発表。楽団内でも「作品に罪はない」として中止は不要との声があったことも明かし、「気兼ねなく演奏できる日が早く来ることを願うばかりです」と吐露した。
中部フィルハーモニー交響楽団は、26日の特別演奏会のフィナーレを1812年からシベリウスの交響詩「フィンランディア」に変えた。帝政ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランドが自由と独立を勝ち取ろうとする姿を描いた同曲。楽団の担当者は「(戦禍に苦しむ)ウクライナ国民を、当時のフィンランド国民になぞらえて選曲した」と説明した。
一方で同楽団は、ロシアの音楽文化を全否定するわけではないとも強調。チャイコフスキー作曲バレエ「くるみ割り人形」から「トレパック(ロシアの踊り)」を演目に追加した。同楽団の担当者も「1812年がためらわれることなく演奏できる世の中に戻ることを願います」とした。
難しい線引き、丁寧な説明必要
ロシア音楽に詳しい大阪大大学院の高橋健一郎准教授(ロシア文化)は「この曲に関しては、演奏自粛も仕方ないと思える事情がある」と理解を示す。曲のテーマでもある1812年の戦争はロシアでは「祖国戦争」とも呼ばれ、ロシア人の「自分たちは西側世界の被害者だという意識の原点の一つになっている」(高橋氏)。
現在のロシア政府がウクライナ侵攻を正当化する背景にもそうした歴史観がにじむといい、高橋氏は「どうしても現在のウクライナの状況と結びついて捉えられやすい」と話す。
立命館大の宮本直美教授(音楽社会学)も、反ユダヤ主義者として知られるワーグナーの楽曲がイスラエルでほとんど演奏されないことなどを挙げ、「音楽は無色透明ではない以上、聞く人の心情を思いやることも必要だ」とする。その一方で「配慮が過度に拡大することも心配だ」として、「線引きは難しいが、個々の事情を丁寧に検討し説明することが重要ではないか」と話した。
筆者:清水更沙、花輪理徳(産経新聞)