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【アトリエ談義】もっと評価されて良いはずの小林永濯(上)

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猫図 絹本

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久しぶりのアトリエ談義です。今回は私が以前から興味を持っている、ややマイナーな画家「小林永濯」を紹介します。

 

彼は狩野派を学びながら、浮世絵や肉筆、挿絵などの作品を残しました。明治大正期には、月岡芳年、河鍋暁斎、そして小林永濯を加えて「浮世絵派の三大家」とも言われた時代があったのです。

 

ところが、彼の名だけが忘れられがちとなり、今では月岡芳年や河鍋暁斎と比べ、小林永濯の名と作品を知る人は少ないようです。それは彼が48歳という若さで亡くなったこと、それに加えて一点一点の作品が精密に描かれているため残された作品数が少ないことも挙げられるでしょう。

 

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また、彼は大変温和な性格で礼儀正しく、出世欲がなく、人を押しのけてでも前へ出ようとする人ではなかったことも、個性の強い芳年や暁斎と比べると不利だったのでしょう。いづれにしても有名にならない条件が重なった不運の絵師の典型が小林永濯と言って良いかもしれませんね。

 

さて、そんな永濯をなぜ私が興味を持つようになったか、そのきっかけをお話しましょう。

 

もう50年も前のこと。自宅の近所にある神社で開かれる、がらくた市に、ぶらっと出かけたところ、雨上がりの土の上に一枚が外れかけた六曲一双の屏風が倒れていたので裏返してみると、或る村落の祭事が描かれており「鮮斉永濯」の落款が読み取れました。永濯の名は知っていましたが特に興味を持っていたわけではなかったのです。でもこれも何かのご縁と思い、買って帰った、それが永濯との出会いでした。

 

色々調べてみると、一見地味な絵師と思いきや、結構面白い特徴が見えてきましたので、早速小林永濯の作品をご覧いただきましょう。

 

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雨乞念仏図 屏風六曲一双

 

雨乞念仏図 屏風六曲一双

 

今、お話しした永濯コレクションの第一号ですが、その内容を詳しく知りたいと思い、当時、板橋区立美術館の学芸員だった安村敏信氏に観て頂きました。彼が色々調べてくださり、わかったことは、おそらく東北地方の雨乞い念仏を描いた作品とのこと。私の考えでは、永濯が旅の途中に出会った雨乞いを地元の庄屋か寺の注文で即興的に描いたものではないかと思っています。ほとんど下書き無しの荒いタッチで描いており、印章も持っていなかったので手書きである事からもわかります。尚、この作品の題名がこれまで「収穫祭」となっていましたが、それは仮題で、現在は「雨乞念仏」に統一されています。

 

 

猫図 絹本

 

この記事の最初の画像の作品は、原宿のある古美術店で出会いました。私はへそ曲がりなので好きでもない猫にじゃれつかれるのが大嫌いです。しかし、描かれた猫は大好きです。浮世絵師の歌川国芳の描く猫などは特に好きです。

 

ところでこの作品の魅力は、永濯の神業としか思えない超絶技巧による猫の毛描きにあるでしょう。尚、この猫図は、伝徽宗(でんきそう)筆の「猫図」に触発されて描かれたと思われます。他にも多くの画家によって描かれており、有名な竹内栖鳳の「班猫(はんびょう)」も、伝徽宗の猫図に感動し、似た猫を探し当て、無理に譲ってもらって描いた、と栖鳳本人が語っています。しかし私には「班猫」に徽宗の影響は感じられませんが…。

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遊女鞠遊び図 絹本

 

遊女鞠遊び図 絹本

 

この作品は明治17年5月に開催された第2回日本美術縦覧会に出品された作品です。永濯は前年の第一回には「美人愛猫図」を出品しており、その作品は現在、東京国立博物館が所蔵しています。私の所蔵しているこの作品は、東京国立博物館蔵の作品に比べると動きがあって人物が生き生きとしており、たった今描かれたような色彩の美しさも見所です。この作品は、かなり以前から私の蔵書である、大正6年発行の「国粋浮世絵傑作集」に掲載されていましたが、その実物は長い間所在が不明でした。数年前でしたでしょうか、都内の古美術店でその実物を発見した時の感動は今でも忘れることができません。

 

(下)に続く

 

筆者:悳俊彦(洋画家・浮世絵研究家)

 

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【アトリエ談義】シリーズはこちらから

 

 

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