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5度の焼失を乗り越えて 興福寺「五重塔」120年ぶりの大修理

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約120年ぶりの大規模修理を控える興福寺の五重塔(右)と、閉堂した東金堂=6月12日午前、奈良市(共同)

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古都・奈良では約12年にわたった薬師寺東塔(国宝)の解体修理が終わり、今夏には興福寺五重塔(同)の約120年ぶりの大規模修理工事が本格化する。奈良時代に創建された五重塔は焼失と再建を繰り返し、現存する塔は室町時代に建てられた6代目。古都の仏塔は幾多の危機を乗り越えて祈りを伝えてきた。

 

 

シンボル

 

「古都・奈良のイメージであり、日本人が思い抱く塔のイメージの代表格」。興福寺五重塔についてそう話すのは、歴史小説で知られる直木賞作家の澤田瞳子さんだ。

 

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名所・猿沢池の向こうに見える興福寺五重塔は絵はがきにもなり、奈良を代表する景観として知られてきた。高さは約50メートルで、国内で現存する木造塔としては京都・東寺の五重塔(国宝)に次いで2番目。風格ある姿は古都のシンボルにふさわしい。

 

藤原氏の氏寺として隆盛した興福寺。五重塔は藤原不比等(ふひと)の娘で聖武天皇の妻、光明皇后が建立した。現在の塔は室町時代の再建だが、部材の大きさや屋根を支える組物などに奈良時代の特徴が色濃く残る。

 

一方、薬師寺東塔は興福寺五重塔と同じ頃に創建されたとされるが、その姿は大きく異なり、大小の屋根の重なりが美しい。

 

解体修理が完了した国宝・薬師寺東塔=2023年4月4日、奈良市(岩口利一撮影)

 

「薬師寺東塔は軽妙なフォルムが優美。一方、興福寺五重塔は雄々しく、春日の勝地に建ち、遠くからも目立ったでしょう」と澤田さんは思いをはせた。

 

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工事8年

 

「古都のランドマーク」として親しまれている興福寺五重塔は現在、屋根などの劣化が進んでおり、明治以来約120年ぶりとなる大規模修理が必要な状況だ。奈良県文化財保存事務所によると、修理は瓦屋根のふき替えが中心で、今後約8年にわたる工事となる。

 

「五重塔はもとはお釈迦様を祭る大切な場であるとともに国宝の貴重な建造物であり、多くの人の協力を得ながら無事に修理を完了させたい」と興福寺の森谷英俊貫首(かんす)は語る。

 

大修理が予定されている国宝の興福寺五重塔=2023年6月7日、奈良市(岩口利一撮影)

 

修理に先立ち、7月からは塔を雨風から守り作業を進めるための素屋根の設置工事が始まる。素屋根は鉄骨造りで高さ約60メートルの高層建築。来夏には塔をすっぽりと覆う形で設置が完了する予定で、以降ランドマークは修理完了までの7年近くにわたり隠れてしまう。

 

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このため、森谷貫首は「県と相談しながら素屋根内の修理現場を公開し、間近で塔を見てもらう機会にしたい」と考える。学術的な発見も期待されるほか、興福寺五重塔の修理を通じて同寺以外の文化財の継承についても理解を深めてもらいたいという。

 

興福寺=2022年3月30日、奈良市(産経新聞本社ヘリから)

 

焼失と再建

 

古都にそびえ立ってきた興福寺五重塔だが、実はその歴史は焼失と再建の繰り返しだった。

五重塔は天平2(730)年の創建後、寛仁元(1017)年に落雷によって焼け、長元4(1031)年に再建。15年ほど後に再び焼けたとされ、承暦2(1078)年に建てられた。治承4(1180)年には平氏による南都焼き打ちに遭い、元久3(1206)年頃に再建。さらに南北朝時代と室町時代にも焼け、その度に再建された。

 

さらに興福寺は火災以外の危機にも見舞われた。明治政府による神仏分離令が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)につながって荒廃し、五重塔は売却されそうになったとも伝えられる。

 

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だが興福寺はどんなときにあっても、創建当初の様式での再建を図り、「天平回帰」を目指してきた。そんな歴史を踏まえ、森谷貫首はこう力を込める。

 

「五重塔は多くの人たちの努力によって今日まで残されてきた。そこには天平の文化が凝縮されており、何としても後世に伝えたい」

 

猿沢池から眺める興福寺五重塔は古都を代表する景観だ=2023年5月25日(岩口利一撮影)

 

塔の建設相次いだ平城京

 

興福寺に五重塔が建立された1300年前の平城京(現在の奈良市)。この本格的な首都には何基程度の塔が建てられたのだろうか。

 

「平城京以前に都だった藤原京(奈良県橿原市、明日香村)からも(約20キロ北側の)平城京に建てられた塔が見え、新しい都が栄える様子が伝わったでしょう」

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そう話すのは、建築史を専門とする奈良文化財研究所の箱崎和久・都城発掘調査部長だ。平城京の寺院では相次いで高層の木造塔が建立され、奈良時代から平安時代にかけ、薬師寺や興福寺、大安寺、東大寺、元興寺、西大寺などに計15基程度は存在したと推測されるという。

 

箱崎部長は「礎石建ち、瓦ぶきの建物が次々と建てられ、特に高くて目立つ塔は都の繁栄を象徴するものだった。平城京は唐・長安の景観を参考にしたのだろう」と説明する。

 

進入路の設置工事が進む興福寺五重塔西側=2023年7月25日、奈良市(岩口利一撮影)

 

中でも薬師寺や大安寺、東大寺などは東塔と西塔が建てられ、今でいうツインタワーだった。大安寺、東大寺の両塔はいずれも現存しないが、七重の威容を誇っていた。東大寺の両塔は大仏殿の東南、西南にあり、東塔の高さは70~100メートルと推測されている。

 

塔はいずれも後に焼失。地震による倒壊の明確な記録はなく、耐震性は高かったと考えられている。

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「古代に造られた塔の柱は狭い空間に計16本(心柱除く)が並んで強度が高く、屋根を支える組物もしっかりとしていた」と箱崎部長。当時の高い技術力を物語っているが、具体的な建設工程などは解明されていない。

 

筆者:岩口利一(産経新聞)

 

■興福寺五重塔 大規模修理が本格化するため、これまで行われてきたライトアップは8月20日午後10時でいったん終了する。法相(ほっそう)宗大本山の同寺にはほかに平成30年に再建の落慶法要が営まれた中金堂や国宝・阿修羅(あしゅら)像を安置する国宝館などがある。

 

 

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