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【アトリエ談義】(7)歌川国芳の弟子たちを通してみる国芳の遺産

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国芳が多くの弟子に恵まれていたことは、すでにお話ししました。弟子たちは国芳師匠を尊敬していましたが、国芳も弟子たちを愛し、国芳社中はいつも理想的な関係が保たれていました。

 

彼らは当然師匠の影響を、作品からも、また国芳の人柄からも受け継ぎました。しかし、明治に入ると時代は激変し、浮世絵も大きく変化し、絵具も外国からの新しい化学顔料が主流となります。モチーフも文明開化の風物が盛んに描かれました。そして、多くの浮世絵師を排出した国芳門下の絵師たちは、明治に入る頃から注文が減り、彼らも転職を余儀なくされました。そのような状況の中、才能のある僅かな浮世絵師が、辛うじて浮世絵の灯を保ち、奮闘していました。

 

その中で先ず取り上げなくてはならないのは「月岡芳年」(1839~1892)でしょう。彼は国芳晩年の弟子で、その才能は多くの弟子の中でも群を抜いていました。11歳で国芳に入門し、14歳で早くも3枚続きの合戦絵を任されます。それは異例のことでした。ここに紹介する「桃太郎豆蒔きの図」も若干21歳の時の作品で、すでに芳年の個性が認められます。

 

「桃太郎豆蒔きの図」

 

しかし、繊細な神経の持ち主だった彼に、やがて精神病との戦いに明け暮れる運命が待っていました。しかしそのような状況の中から作品が生み出されたのです。次に紹介するのは、風俗三十二相「にあいそう」です。芳年円熟期の作品です。芳年の美人画にはそれほど病的な表現は見られません。いかにも明治の新しい風を感じられる美人画です。

 

「風俗三十二相 にあいそう」

 

そして最晩年、月をテーマにした百枚からなる「月百姿」が描かれます。この作品集は浮世絵には珍しく大変上品な作風を持っています。その代わり、浮世絵らしい熱気がありません。それはやはり精神病の悪化と無縁ではないでしょう。

 

「月百姿」

 

そのような彼の人生でしたが、幸いなことにその人柄は国芳譲りの江戸っ子の典型でした。従って、病による心の不安定な時はあったにしても、普段はいたって健康で弟子思い。時には彼らを連れて芝居を観に行ったり、当時流行した箱庭作りにも熱中しました。又、養女のきんに、お化けの話をして怖がらせて喜ぶという茶目っ気も持ち合わせていたのです。どちらにしても、病と戦いながら多くの優れた作品を生み出したのですから、実にあっぱれと言って良いでしょう。

 

次は落合芳幾です。彼は同門の芳年と技を競い合いました。芳年との合作「英名二十八衆句」で本格的なデビューを果たしました。そして当時外国から入ったばかりの写真の味を浮世絵に取り入れた作品を発表したり、「東京絵入り新聞・明治八年」を発行。絵師には珍しい実業家の面も備えていました。

 

「英名二十八衆句」

 

晩年は失意のうちに没したというのが通説ですが、私は最晩年に描かれた肉筆の大作を確認しているし、「先師一勇斎国芳翁四十回忌追善書画会」を計画、会主として活躍した記録が残っています。彼の名誉のためにも、この事実を力説しておきたいと思います。

 

筆者:悳俊彦(洋画家・浮世絵研究家)

 

 

この記事の英文記事を読む

 

 

ラスト・ウキヨエ 浮世絵を継ぐ者たち-悳俊彦コレクション
場所:太田記念美術館
開催期間:2019年11月2日(土)~12月22日(日)
(前期)11月2日(土)~24日(日)
(後期)11月29日(金)~12月22日(日)
※前後期で全点展示替え

 

【アトリエ談義】
第1回:歌川国芳:知っておかねばならない浮世絵師
第2回:国芳の風景画と武者絵が高く評価される理由
第3回:浮世絵師・月岡芳年:国芳一門の出世頭
第4回:鳥居清長の絵馬:掘り出し物との出合い
第5回:国芳の描く元気な女達
第6回:江戸のユーモア真骨頂“国芳の戯画”
第7回:歌川国芳の弟子たちを通してみる国芳の遺産

 

 

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