パリで開いたオートクチュールコレクションのフィナーレで、
孫の森泉さんと一緒に登場した森英恵さん(右)
=2004年7月(ゲッティ=共同)
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「手でものを作らなくなると、人間の存在が希薄になっていく気がします」
日本のファッションデザイナーの草分け的存在で、高松宮殿下記念世界文化賞を主催する日本美術協会の副会長などを務めていた森英恵さんはいつも、手仕事を後世に継承する大切さを力説した。日本人として唯一、正会員として属したパリ・オートクチュール(高級注文服)の世界は、いわば究極の手仕事が結集する場。精緻なビーズ刺繍に羽根飾り、豊かなドレープ…。フランスの伝統文化に東洋の美を持ち込み、27年間「前だけ向いて走ってきた」という。気が付けばオートクチュール産業も、着物文化を支えた日本の手仕事も弱体化していた。強い危機感を口にしつつ、晩年までオペラの衣装を制作するなど手を動かし続けた。
蝶のように華麗に世界を舞ったデザイナーは、実は反骨の人だった。
「美」を求め続けた背景には、過酷な戦時体験があった。空襲で死と隣り合わせの東京で、勤労奉仕しながら大学の友人とボロボロの『風とともに去りぬ』を回し読み、華やかな舞踏会の衣装に憧れたという。「きれいな服が欲しくて自分でミシンを踏んだり、精いっぱい工夫しました」。そのセンスは、芸術とおしゃれを愛した開業医の父譲りだった。
戦後、専業主婦に飽きたらずデザイナーの道へ。昭和30年代、名監督や大スターとともに日本映画の黄金期を衣装制作で支えた。色っぽい芸者を表現するため、監督に命じられて銀座の路上で出勤中のホステスをひたすら観察したことも。「デザイナーにとって、人間洞察がいかに大切かを知る経験でした」と語っていた。文化や宗教、政治体制もさまざまな世界のVIPと渡り合う上でも、役に立ったという。
36年、初めて訪れた米ニューヨークでの屈辱的体験が、その反骨心にさらに火をつけた。きっかけは百貨店地下階で売られていた粗悪な「メード・イン・ジャパン」の〝ワンダラー・ブラウス〟と、現地でみたオペラ「マダム・バタフライ」。畳の上を下駄で歩く蝶々夫人に対し、羞恥と怒りのあまり、心を決めたという。
「日本の布を使い、日本人の私がデザインして日本人が縫い上げた服を、日本のジェット機にのせて米デパート最上階の高級品売り場に置くんだ、と。戦争には負けたけれど、日本人の美意識の高さを世界に知らせたい。その希望が、エネルギーになったんです」
その言葉通り40年、ニューヨークで初めて発表したコレクションでは、「鬼しぼちりめん」など和服地を多用。トレードマークとなった「蝶」は森さんにとって、薄幸な蝶々夫人ではなく気高さや強さの象徴だった。60年にミラノ・スカラ座で公演した浅利慶太さん演出「蝶々夫人」では清くて強い新たな蝶々さん像を表現、森さんも衣装を担当しリベンジを果たした。
長いキャリアにおいては、「ハナエモリ」の経営破綻や二人三脚で働いてきた夫の死など試練もあった。けれども平成8年、服飾デザイナーとして初めて文化勲章を受章した際、「ファッションは流れに浮いている花みたいに長く扱われてきたので夢のよう」と喜んだ。「着るものは、自分の体に一番近い文化」が信念だった。
16年、パリ最後のショーの主題は「イースト・ミーツ・ウエスト(東西の出合い)」。ニューヨークでのデビュー時、ハナエモリを紹介した米紙の見出しから取った。デザイナー人生を貫くテーマだった。
すっと伸びた背中が美しい人だった。着る人を引き立てる華やかなドレスをデザインしながら、自身はいつも控えめな黒のパンツスーツ。自制とプライドの装いに見えた。
筆者:黒沢綾子(産経新聞)