2022-05-17

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「自分が間違っていたと悟ったら、自分の立場を再考して改めようとする彼の姿勢を高く評価するようになった。」―ブラッドリー・K・マーティン、『Number 1 Shimbun』の引用から

 

 

2020年4月19日、日本のタレント、ハリー杉山が、父ヘンリー・スコット・ストークスの死去を報告した。ストークス氏は英国人ジャーナリストで、フィナンシャル・タイムズ紙、タイムズ・オブ・ロンドン紙、ニューヨーク・タイムズ紙の東京支局長を歴任した。

 

彼が所属した二紙を含むいくつかの海外メディアが追悼記事を掲載した。ここではそのうち3本を取り上げ、ストークスの独創的な研究や考え方がどのように評価されているか見ていく。

 

タイムズ紙(タイムズ・オブ・ロンドン紙)

 

ストークスは1968‐70年、タイムズ紙の東京支局長を務めた。タイムズに掲載された追悼記事の見出しは「タイムズの記者であり、南京大虐殺をめぐる論争を引き起こした在日英国人ジャーナリストの真骨頂」。これは2014年にストークスの名で出版された日本語著書の記述をめぐる騒動に言及したものだ。その著書は翻訳者の藤田裕行が既に認知症などが進行していたストークスに170時間のインタビューを行い、著したものである。

 

タイムズが引用した問題の記述は以下のものである。

 

「いわゆる "南京大虐殺 "がなかったことは明らかだ。歴史的事実として”南京大虐殺”は起こらなかった。それは(中国の国粋主義者である)国民党政府が捏造したプロパガンダでであった」

 

ストークスは当初この記述内容を否定したが、数日後、出版社を通じてこれは自分の考えを反映したものだという見解を発表した。彼の主張の要点は大虐殺という用語は不適切であり、中国国民党と中国共産党の双方がプロパガンダのために犠牲者数を誇張したという点だった。

 

同様の指摘は他の研究者によってもなされているが、追悼記事ではその点は触れられていない。

 

 

誤解を招くレッテル

 

さらに、記事はストークスが「確かに日本の国粋主義的右翼に共感」し、「1946年に設置された極東国際軍事裁判(通称東京裁判)は『勝者の裁き』を代表していると主張した」と不満気に書いている。

 

極東国際軍事裁判が「勝者の裁き」であるとの考えをストークスがどこから得たのかはわからないが、おそらく出どころの一つは Richard Minear, Victors’ Justice: The Tokyo War Crimes Trial (Princeton University Press, 1971) (邦訳 リチャード・マイニア著『東京裁判-勝者の裁き』)であろう。

 

極東国際軍事裁判が「勝者の裁き」であるとの考えは、本来、日本史に対する右翼的な歴史観ではない。リチャード・マイニアはアメリカの政治スペクトルの中ではかなり左寄りであった。また、同裁判は「勝者の裁き」であるのみならず、米国・英国・欧州の法律の基本原則を無視したものだと批判してきたのは、どちらかと言えば英米の左寄りの学者たちである。

 

また、タイムズ紙の「右翼」という言葉の使い方も疑問である。というのも、タイムズは右翼的なメディア・グループとして悪名高い、ルパート・マードック氏率いるニューズ・コープの傘下にあるからだ。因みに、保守的・右寄りな報道姿勢で知られる米国のFOXニュースもマードックの影響下にある。

 

 

勝者の物語を支持する人々

 

日本史について左翼的ではない歴史観に立つ者を右翼と呼ぶのは、自分と異なる意見を排除するために外国人も日本人もよく使う手法である。日本史の文脈においては右翼という言葉は左翼よりもはるかに頻繁に使われる。右翼という言葉を使う者は、自己の歴史観が正統でそれ以外は異端と見なしているのだろう。

 

ストークスに右翼のレッテルを貼るのは、連合国側の勝者の物語を正当化するためではないだろうか。ストークスはイギリス帝国主義、特にインドにおけるそれに対し非常に批判的であった。

 

彼は白人による勝者の物語を批判する際に、ラダビノード・パール(1886-1967)を引用している。パールはインドにおけるイギリス帝国主義に精通したベンガル人で、東京裁判では判事として有罪判決に反対意見を述べた。

 

一方、ストークスの後任のタイムズ日本特派員、リチャード・ロイド・パリーが書いた記事『英国軍ラグビーチーム 日本で戦犯を祀る神社を参拝』(2019年9月18日掲載)は、白人による勝者の物語を支持するものだ。この記事に対する拙文がJAPAN Forwardに掲載された。

 

 

ニューヨーク・タイムズ紙

 

ストークスは1978-83年、ニューヨーク・タイムズ紙の東京支局長を務めた。

 

サム・ロバーツによる同紙の追悼記事も、タイムズ・オブ・ロンドン紙のように、物議をかもしたストークスの著書について「第二次世界大戦中に日本軍が行った残虐行為を擁護する右翼に受け入れられた」と述べる。

 

しかし、ロバーツはストークスが広島と長崎への核兵器の使用を「あの戦争における日本軍の犯罪とされるものが全く軽微に見えるような大規模の戦争犯罪」と位置づけたことも指摘する。

 

さらに、ウォール・ストリート・ジャーナル紙とアジア・タイムズ紙の元記者ブラッドリー・K・マーティンのストークスに対する評価-『Number 1 Shimbun』の追悼記事に引用されたもの-を紹介している。「自分が間違っていたと悟ったら、自分の立場を再考して改めようとする彼の姿勢を高く評価するようになった」。

 

 

サウスチャイナ・モーニング・ポスト紙

 

サウスチャイナ・モーニング・ポスト紙の特派員アンソニー・ローリーは、ストークスの人柄に重きを置き、より深みのある人物像を描き出した。「彼は愉快で友好的で、FCCJ(日本外国特派員協会)に欠かせない存在であった。」

 

他紙の追悼記事と同様、ローリーも、高い人気を誇り評価が高いストークスの著書『三島由紀夫の生と死』(1985年)を取り上げた。さらに、ストークスが韓国の民主化運動を支援し、『光州蜂起』(1980年)を共著で出したことも指摘した。この本は独裁的な朴正煕に対するクーデターで政権を握った新たな独裁者、全斗煥の支配下で起きた市民と警察の大虐殺を記録したものである。

 

また、ローリーはハリー杉山が素晴らしい父に心から感謝していること-日本語としては非常にストレートな表現で述べている-を紹介し、長引く心身の不調が患者やその家族に与える影響を取り上げたNHKの『ハートネットTV』に出演したことにも触れている。複数の報道によると、ストークスはパーキンソン病を患っていた。

 

 

作品を通してストークスに出会う

 

私は1997年から日本に住み、外国メディアの日本報道について研究してきたが、ストークス氏に会う機会はなかった。残念に思う。ストークスはかつて日本外国特派員協会の重鎮だった。私は特派員協会の記者会見に出席したことがあるが、田中角栄元首相の収賄逮捕(1976年)のような古い話題が語られ、タイムワープした世界にいるように感じた。

 

また、会員の中には連合国や日本占領時代の米国が持っていた勝者のメンタリティーをいまだ反映しているような者もいる。彼らは日本を愛するからこそ批判すると言い、 “Japan’s Nasty Naziish Elections”(日本の汚れたナチス的選挙) “Japan: Shinzo Abe’s Government Has a Thing About Hitler. It Likes Him.”(日本:安倍政権はヒトラーがお好き)のような英文記事を書いている。しかし、そのような「白人の救世主」的態度はストークスが厳しく批判したものである。

 

生前のストークス氏に会えなかった私は、彼が著した三島由紀夫の伝記を読み始めた。少なくともストークスは「白人の救世主」として振る舞うのではなく、独自の研究と思考で日本に向き合った人物だったと言えるだろう。

 

筆者:アール・H・キンモンス博士(JAPAN Forwardコメンテイター、大正大学名誉教授)

 

 

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