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1989年の天安門事件直後に中国共産党総書記に就任し社会主義市場経済を推進、引退後は上海閥を率いて現在の習近平体制の発足を後押しした江沢民元国家主席が11月30日、上海で死去した。96歳だった。中国国営新華社通信など国営メディアが一斉に伝えた。
江沢民氏は、日中間の「歴史戦」の火ぶたを切った指導者として知られる。江氏は歴史問題をカードに位置づけた対日外交を展開し、その影響は現在の日中関係にも禍根を残している。
1989年6月4日、中国は民主化運動を武力弾圧し、多くの若者らが犠牲となった天安門事件が発生した。西側諸国は経済制裁を科し、中国は外交的孤立を招いた。
しかし、日本はいち早く経済制裁を解除し、91年8月に西側の首脳としては事件後初めて海部俊樹首相(当時)が訪中。92年10月には天皇、皇后両陛下(今の上皇さまと上皇后さま)が中国をご訪問された。中国が国際社会に復帰する上で、日本は重要な足掛かりとなった。
「永遠に言い続ける」
だが、江氏は事件で失った求心力を回復するため「反日」を利用した。「愛国主義教育運動」を展開し、中国国内に抗日戦争記念館を新増設した。98年11月、両国の平和友好条約20年を記念して国賓として来日した際には、宮中晩さん会で黒い人民服を着用して出席し、「痛ましい歴史の教訓を永遠にくみ取らなければならない」と日本批判を展開した。
江氏の演説などをまとめた「江沢民文選」によれば、98年8月に江氏は中国の外交当局者を集めた会議で、「日本軍国主義者は非常に残忍だった。(戦時中の)中国の死傷者は3500万人に達した」「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と指示していたことが明らかになっている。
95年8月15日、村山富市首相(当時)は戦後50年の節目に、日本の「植民地支配」と「侵略」に「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明した。しかし江氏は、村山談話の発表から3週間もたたない9月3日の演説で「日本は真剣に歴史の教訓をくみ取り、侵略の罪を深く悔い改めてこそ、アジアの人民と世界の理解と信頼が得られる」と述べ、歴史問題は収まることはなかった。
2015年、安倍晋三内閣の下で設置された有識者会議「21世紀構想懇談会」がまとめた報告書は村山談話についてこう指摘している。「天安門事件発生後、日本は中国の国際的孤立を防ぐために動き、戦後50年の村山談話を発表したが、冷戦後に共産党の正当性を強化する手段として中国側が愛国主義教育を強化した江沢民時代に重なってしまった」
筆者:広池慶一(産経新聞)
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産経新聞の記事を一部編集して転載しています