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岸田文雄首相が試練の時を迎えている。自らを外相や自民党政調会長など要職に起用し続け、「宰相候補」に引き上げた安倍晋三元首相が凶弾に倒れたからだ。首相と安倍氏は政策面の違いこそあったが、当選同期で根幹部分では強い信頼関係で結ばれてきた。首相は選挙後、「安倍氏の思いを受け継ぎ、特に情熱を傾けた拉致問題や憲法改正などの難題に取り組む」と語ったが、安倍氏の死で動揺する保守層をつなぎ留め、畏友の悲願を果たせるかが焦点となる。
「俺が頑張らないといけない」
首相は安倍氏が遊説中に銃撃を受けて死亡した直後の7月9日夜、新潟県での最後の応援演説を終えた後、周囲にこう語った。
首相の参院選での演説は新型コロナウイルスや外交・安全保障、物価高騰対策などに満遍なく言及し、手堅いとの評判がある一方、平板で面白みに欠けるともいわれてきた。だが、首相はこの日、「安倍元首相が愛した日本をさらに元気にし、豊かにし、次の世代に引き継いでいかなければならない」と感情をたかぶらせた。安倍氏に近い党重鎮は「安倍氏が乗り移ったようだ」と驚いた。
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首相と安倍氏は岸田政権発足後、「水と油」のような関係性で見られることが増えていた。参院選の直前には、安倍氏が自らの秘書官として重用した防衛省の島田和久前事務次官の交代をめぐり、一触即発ともささやかれた。だが、首相は「安倍さんとけんかをするつもりはない」と漏らし、選挙後には関係修復に乗り出す考えだった。安倍氏の銃撃事件はその矢先に起きた。
2人は、平成5年衆院選の初当選同期だ。若い頃から首相は「ハト派」、安倍氏は「タカ派」に分類されるが、当時から馬が合い、自民青年局時代の台湾訪問では酒の飲めない安倍氏をかばい、首相が現地の議員らと酒を飲み交わしたという。
平成24年の第2次安倍政権の発足以降も、安倍氏は首相を外相などの要職に起用し続け、目をかけた。安倍氏は首相を自らの後継とも期待しており、「(ネクストバッターズサークルで)バットをぶんぶん振っている」と語ったこともある。
令和3年の自民総裁選で、安倍氏は高市早苗政調会長を全面支援した。前年に続き出馬した首相との溝が指摘されたこともあったが、実際は保守票を高市氏に引き寄せ、最大のライバルだった河野太郎広報本部長を競り落とすことにつながり、首相の勝利に一役買った。
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安倍氏の死で懸念されるのが自民からの「保守離れ」だ。安倍氏は自民の岩盤支持層である保守層の象徴的な存在でもあった。首相自らは、改憲にも強い意欲を持ち、皇位継承でも男系継承の維持を主張する。6月にドイツで開かれた先進7カ国首脳会議(G7サミット)でも中国の脅威を訴えるなど厳しい対中観を持っており、保守的な性格が強い。
だが、自らが率いる岸田派(宏池会)の系譜には、日中国交正常化時の外相だった大平正芳元首相や改憲に否定的な古賀誠元幹事長らが連なり、保守層から首相自身もリベラル色の強い政治家だと色眼鏡で見られてきた。
これまでは安倍氏が保守層をまとめる役割を担ってきた。今後は党を代表する首相自らが、その役割を果たす必要に迫られる。
首相は昨春、産経新聞のインタビューで「(安倍政権で)長く外相を務めたので、『安倍内閣であればどうするか』ということはいつも思いをめぐらせている」と語っていた。その安倍氏はもういない。
首相は今後、自らの手で保守層の支持をつかみ取らなければならない。首相が安倍氏を吉田茂元首相以来55年ぶりとなる国葬で送ると決めたことには、保守層からも好意的に受け止められた。首相は今後、保守層の支持を維持しながら、保守層の悲願でもある改憲や北朝鮮による拉致問題の解決などに向き合うことになる。
首相は参院選に勝利したことで、得られた国政選挙のない「黄金の3年」という見方について「黄金の3年という考え方は全く持っていない」と否定する。後見役の安倍氏を失い、首相の今後は「試練の3年」に変わった。一歩間違えば岩盤支持層を一気に失い、政権の土台が崩れかねないだけに、首相は難しいかじ取りを迫られる。
筆者:永原慎吾(産経新聞)
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2022年8月2日付産経新聞【岸田政権考】を転載しています