India's Land of the Rising Sun by Mami Yamada 001

A girl picking tea leaves in Arunachal Pradesh. (© Mami Yamada)

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インドのナレンドラ・モディ政権が掲げる指標の一つに「平和で豊かなインド北東部」がある。北東部とは、アルナーチャル・プラデシュ、アッサム、ナガランド、メガラヤ、マニプール、ミゾラム、トリプラの七州にシッキムを含めた八州を指し、しばしば七姉妹(シッキムを含めた場合は八姉妹)と称される。第二次大戦の激戦地となったインパールがある場所と言えば日本人にはイメージしやすいかも知れない。

 

北は中国、南はミャンマー、西はバングラデシュと国境を接するこの地域は、1962年に勃発した中印国境紛争をはじめ、国境地帯ならではの難しい問題を抱えてきた。現在も、外国人や他地域に居住するインド人が北東部の特定地域に入域する際には、外国人はPAP(保護地域許可証)、インド人はILP(インナーライン許可証)をそれぞれ事前に入手しなくてはならない。

 

とはいえ当地の治安は急速に安定しつつあり、インド内務省によれば北東部における2022年の過激派事件は2014年との比較で76%減。治安維持要員の死者は90%減、民間人の死者は97%減と、いずれも目に見えて改善された。道路や橋などのインフラ整備もハイピッチで進んでおり、2018年には工期約20 年、総工費約880 億円を投じた全長4.9kmの鉄道道路併用橋、ボギビール橋が開通。最重量級の戦車の通行や戦闘機の離発着が可能でマグニチュード7 までの大規模地震に耐えられる同橋の完成により、従来はブラフマプトラ川に分断されていた町や村が繋がり、人々の移動時間は劇的に短縮された。

 

北東部は地下資源にも恵まれ、アッサム州の原油埋蔵量だけでもインド全体の26%強、天然ガス埋蔵量は12%強に及ぶ。豊かな水資源にも恵まれ、ある意味インドの未来を左右する地域なのだ。にもかかわらずその実態はいまだヴェールに覆われ、なかなか外に伝わってこない。

 

著者の山田真美氏

 

本稿では、北東部八州のうち最大の面積(北海道とほぼ同じ)を誇るアルナーチャル・プラデシュ州で茶園を経営するオマーク・アパング氏(52歳)の活動を通じて、日本とインド北東部とのあいだで始まった民間レベルの友好関係の一例を紹介したい。

 

茶園の入口に立つオマーク・アパング氏(©山田真美)

 

筆者がアパング氏と初めて会ったのは1998年の首都ニューデリーだった。このとき彼は弱冠27歳。最年少でバジパイ内閣の観光大臣に就任したばかりだった。雲の上の人を想像したが、実際に会ってみると素朴で腰の低い好青年だった。しかも南ヒマラヤの先住民族であるアディ族の血を引く風貌は、驚くほど日本人と似ていた。意気投合し、以来、四半世紀にわたって家族づきあいをさせていただいている。

 

ちなみにアパング氏の実父は1980年から99年と2003年から07年の計22年250日にわたってアルナーチャル・プラデシュ州首相を務めたゲゴング・アパング氏。この記録はインドの州首相の在任期間としては歴代四位である(一位はシッキム州首相を務めたPKチャムリン氏の24年166日。データは2023年4月現在)。

 

村人が暮らす一般的な住居(©山田真美)

 

大臣だった当時から、アパング氏はしばしば日本文化への敬意を口にしていた。1990年代のインドは、自動車のスズキの空前のブームにより既に親日的なムードにあふれていたが、彼が抱いた日本への敬意には北東部の人ならではの熱い想いもあったようだ。

 

「アルナーチャル・プラデシュはサンスクリット語で〈朝日に照らされた山々の国〉という意味。なぜならここはインドの最東端に位置し、インドで一番早く朝が訪れる場所ですから。日本が世界から〈日いずる国〉と呼ばれるように、アルナーチャルはインドの〈日いずる国〉と呼ばれているのです。私たちが日本に親近感を感じるのはそのせいかも知れません」

 

アパング氏のこの発言は単なる社交辞令ではなかった。その証拠に、氏は実際に幾度も日本を訪問した。その際には、日本の表面的な部分を見るだけでなく、専門家に会って「里山」の哲学に関する講義に耳を傾け、山間部の狭い土地を活かした日本ならではの農業のやり方を学ぶなど、日本の良さを深掘りしていたのが印象的だった。

 

その後、政治の世界を離れて故郷に戻ったアパング氏は、アッサムとの州境に近いオヤン村で家業の茶園経営に専念していたが、2019年、筆者のもとに一通のメールが届いた。茶園の中に非営利の小さな学校をつくったから顧問として手伝ってくれないかというのだ。学校の名前はヒマラヤ・グローバルスキル研究所、略してHIGS(ヒッグス)。研究所と言うから昨今のトレンドであるIT関係の学校かと思いきや、メインの目的はなんと日本語学習だというではないか。

 

授業を終えて川へ泳ぎに行くHIGSの学生たち(©山田真美)

 

「アルナーチャルの若者に日本語を学ぶ機会を与え、日本への就職や留学を通じて日本の智慧を身につけさせ、やがて社会に大きく貢献できるような人に育ってほしい。その一念から、小さな学校を作ってみました。今はまだ日本語の初歩を教えはじめたばかりですが、あなたも時々現地へ来て、学生たちに日本の歴史や文化について集中講義をしてくれませんか」

 

アパング氏からの思いがけない要請に応えるべく、筆者は急きょオヤン村へと飛んだ。2019年6月のことである。東京からデリーへ、そしてアッサム州のディブルガールへと飛行機を乗り継いだあと、完成して間もないボギビール橋を渡り、さらに竹林やジャングルが続く道を車に揺られること約2時間。広大な茶園の中にたたずむ小さな教室に到着した筆者を待ち受けていたのは、17歳から27歳までの総勢22人(うち、女子は5人)から成るHIGSの第一期生たちだった。

 

HIGSの第一期生と筆者(©山田真美)

 

それからの数日間で、筆者は学生たちを通じてオヤンの人々の暮らしぶりをつぶさに知ることとなるのだが、一言で言えば、それは予想以上にワイルドなものだった。住まいは竹を細長く切って床として並べただけの高床式住居で、屋根は椰子葺(やしぶき)。食卓にはジャングルから採ってきた新鮮な野草が並ぶ。軽い傷には、そのあたりに自生している薬草を貼っておくだけだが、これが実によく効くのにも驚いた。村にはヒーラーと呼ばれる治療師の女性がおり、無料で怪我や病気を治してくれた。ラッキーなことに私も――こちらからは何も頼まなかったにもかかわらず――当時問題があった肩を治してもらった。彼女の哲学により、謝礼金は一切受け取ってもらえなかった。

 

家族や友達が集まってお茶やスナックを楽しむ部屋。アパング邸にて(©山田真美)

 

HIGSの学生のなかには想像を絶するほどの山奥の出身者もいた。一人の男子は実家から最寄りの町まで徒歩で片道2日かかった。その途中にはロッククライミングが必要な場所もあると言い、「世の中ではボルダリングのような競技が流行っているそうですが、僕らにとっては大昔からの日常です」と笑ってみせた。HIGSの周辺には繁華街がなく、学生たちは週末になると川に飛び込んで泳いだり、ホタル観賞を楽しむなど、そのライフスタイルはさながら日本昔話のようであった。ただ、昔話と決定的に違っていたのは、彼らがデジタルネイティブであり、子どもの頃からネットを通じて世界と繋がっていたことだろう。日本語を勉強する理由を尋ねても、「ネットで日本のアニメを観て育ち、日本文化とテクノロジーを学ぶことが子どもの頃からの夢でしたから」というイマドキの答えが返ってきた。

 

HIGSでの授業中に起きた印象的な出来事を一つだけご紹介したい。筆者はそれまでにもインド工科大学(IIT)などインドの複数の大学で日本文化に関する講義を行なってきた。その中で、日本の生活様式の一環として〈正座〉を教えると、多くの学生はこの座り方を途中までしかできず、膝を半分曲げたあたりで「痛い、痛い」と降参してしまうのが常だったのだ。ところがHIGSの学生たちは一人残らず、いとも簡単に正座ができたではないか。「生活様式が日本と似ているんだと思います。私達もこの座り方をしますよ」。事もなげに言う彼らの言葉を聞いて、二つの文化の近さを感じた。

 

その後、運悪くコロナ禍が全世界を襲い、HIGSの学生にとってもつらい3年間が続いた。この間に残念ながら学生の何人かは学校を中退したが、それ以外の者は互いに励まし合ってモチベーションを保ちながら日本語の勉強を続けたようだ。そして、ようやく様々な規制が緩和された2023年、第一期生たちが次々に仕事を得て日本へと旅立ちはじめた。彼らが日本で従事する仕事の内容は、農業、建築関係、ホテル業界など多岐にわたり、勤務地も日本各地に散らばることになる。若い彼らには、日本の文化やテクノロジーを大いに学んでもらい、同時に人材が不足する日本の力になって欲しい。

 

HIGSの学生たちに日本の歴史文化をレクチャーする筆者(©山田真美)

 

旅立つ学生たちを見守るアパング氏に現在の心境を尋ねると、次のような言葉が返ってきた。

 

「人を育てるのは大変なことです。根気が必要な上に、10年後、20年後にならないと答えが出ませんから。しかもそれは、建物に例えれば巨大なビルディングではなく、小さな家を建てるようなものかも知れません。効率が悪いと感じる人もいるでしょう。しかし、それでも私は人と人との関係を何よりも大切にしたいし、若者たちを育てたいのです。HIGSの卒業生たちは、いつか日印の懸け橋になってくれるかも知れません。その日のために、私たちは今日、人を育てなくてはいけないのです」

 

かつてインドの観光大臣を務め、北東部では今も少なからぬ影響力を持つアパング氏のこの発言は、ともすればビジネスの成果ばかりが優先される昨今の風潮の中で、私たちが進むべき道を考える上での大切なメッセージを含んでいるのではあるまいか。インドの〈日いずる国〉アルナーチャル・プラデシュの茶園に蒔かれた日印交流の種は、今、芽生えたばかりだ。

 

筆者:山田真美
作家 / 博士(人文科学) / 日印芸術研究所言語センター長 /
インド工科大学ハイデラバード校教養学部客員准教授 /
ヒマラヤ・グローバルスキル研究所(HIGS)顧問 /
公益財団法人日印協会理事 / ブータン王国ロイヤル・
アカデミー建設プロジェクト顧問 / 宇宙作家クラブ会員 /
日本オーラル・ヒストリー学会会員 /
ウェブサイト「山田真美の世界」 

 

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