Whaling-Today-Sankei-article-22 part4-001-scaled 1 100

A section of a diorama depicting the mansion of the Masutomi clan who ran the whaling business in Nagasaki and Ikitsuki Island during the Edo period. This image and diorama are owned by the Shima no Yakata Museum in Hirado City, Nagasaki Prefecture.

長崎県平戸市の「島の館」所蔵のジオラマ

~~

 

大きな繁栄をもたらした江戸期の捕鯨。それは誰のものでもなかった海の富の独占も意味した。捕獲したクジラをくすねる一団が出没したが、厳しくとがめる雰囲気は薄かった。まだ近代的な法が整備される前の時代。それは自然発生的な、富の分配でもあった。

 

気になったのはクジラの巨体を切りさばく様子より、ジオラマの片隅にあった一団だ。長崎県平戸市、生月(いきつき)島にある博物館「島の館」を訪ねた。江戸時代にはここで、全国最大規模の古式捕鯨が行われていた。

 

岸壁から綱を垂らし、クジラ肉の塊をひそかに持ち出そうとしている。そばには男に棍棒(こんぼう)を振り上げられ、逃げ惑う人たち。泥棒の一味、だろうか。

 

九州北西部の捕鯨は江戸時代後期、太地など紀州を凌駕(りょうが)した。なかでも益冨家は本拠地・生月島のほか、壱岐や五島灘にも鯨組(捕鯨組織)を置き、3千人も雇用する巨大企業だった。九州各地や瀬戸内から網張りなどの技術にたけた漁師を雇い入れ、能力や効率重視の近代的経営を行った。戦国時代に伊勢湾で興った古式捕鯨は、この益冨家の経営で頂点を迎えたといえる。

 

江戸時代にクジラを解体する作業場があった跡地=長崎県平戸市の生月島

 

画家で蘭学者の司馬江漢は天明8(1788)年末から1カ月、益冨家に滞在し、その繁栄ぶりを「西遊日記」に残した。

 

〈八ちよう艪にして飛ぶが如く、かけ声は「アリヤアリヤアリヤ」走る〉

 

乗船した勢子船の速さに仰天する様子など生き生きと記したが、ジオラマの場面に相当する記述はない。

 

 

漁獲を独占

 

「カンダラですね」

 

学芸員の中園成生氏が、浜で漁獲物をくすねる一団の行為を方言でそう呼ぶと説明した。呼び方はさまざまだが各地に同様の慣習があり、民俗学的な研究対象になってきたという。

 

海の魚は地元漁民の共有財産だったが、捕鯨組織ができると漁獲は独占され、漁民は雇われとなる。それでも古い意識から、窃盗慣行が根強く残ったという。

 

「捕鯨業者側にも漁獲を独占していることや、他人の地先で稼ぐことへの負い目があり、カンダラには概して寛大でした。ただ益冨組は比較的厳しく取り締まったため、地元民から強盗を意味する『がんどう組』と陰口を言われました」

 

生月島に残る益冨家住宅。手前は平戸藩主を迎えるための御成門=長崎県平戸市

 

所有と分配

 

カンダラは所有や分配をめぐる、根源的な意味を秘めているように感じる。北米アラスカ・バロー村で先住民の捕鯨を調査した国立民族学博物館の岸上伸啓教授は、これと正反対ともいえる慣行を目にしている。

 

住民は7、8人でグループを組んで春と秋、季節的な捕鯨を行う。捕獲したクジラの肉は気前よく村人たちに配られる。親族を招いた祝宴を催して土産で渡し、他の村人にも呼びかけて取りに来てもらう。取りに来られない老人や寡婦世帯には出向いて届ける。

 

捕鯨は収入を得るためではない。賃金労働で得た金を投入してまで行い、経済的には全くの持ち出しだ。

 

「彼らにとって捕鯨に従事し、クジラをコミュニティーに与えること自体が意味のある活動なのです。肉の分配は人々をまとめる大きな役割を果たしています」

岸上教授はそう話す。

 

村には約45の捕鯨グループがあり、村人たちはしばしば恩恵にあずかる。こんな慣習があれば、盗みなど思いもよらないはずだ。

 

 

地元を潤す

 

改めてジオラマの人形たちを眺めると、堂々とした泥棒っぷりにも見える。誰のものでもなかった、つまりは皆のものであったクジラを海から引き上げ、私物化したのは一方的なルール変更であろう。技術を持ち、仕組みを整える力を持ったものが、自然の富を囲い込んだ。それは法外な盗人ではないか-と腹の底で感じても理は通る。近代法がない時代のはなしだ。

 

捕鯨を行う者も「負い目」を帳消しにする必要を感じていたようだ。江漢は生月島の海辺に小屋を設けて芝居が行われたと記している。益冨家の一族には人形を遣うしゃれっ気のある人物もいた。浄瑠璃語りが来たときには、老若男女数百人が押し合いへし合いの大騒ぎになったという。

 

益冨家は平戸藩に多額の納付をして地元経済を潤し、新田開発や護岸工事、神社の鳥居寄付など地域にさまざまな恩恵も施している。益冨家に限らず九州の捕鯨業者は喧嘩(けんか)や賭博の禁止、村内をみだりに歩き回らないなど、外部から雇った漁師の風紀を律する掟(おきて)を作った。もうけ主義の悪評が立たぬよう、相当な努力を払っていたのであろう。

 

和歌山の太地で捕鯨を行った和田・太地両家も同様だ。「大概の時は見ぬふりして(クジラの肉を)切らしてやるようにしなければいかんよ」。太地五郎作は幼かった明治時代に母からきつく言われた思い出を、のちの講演で語っている。

 

 

解体作業場

 

生月島でかつてクジラを解体する作業場があった入り江にいまは、建物ひとつ残ってはいない。コンクリートの岸壁と、草っぱらが広がるばかりだ。江漢はここでセミクジラの解体を見学し、整然と処理されていくありさまを「鯨にすたる所なし」と感嘆している。カンダラは目にしなかったのだろうか。草が強風に揺れ動く土の下から、無数の喜怒哀楽が立ち上ってくるように感じた。

 

筆者:坂本英彰(産経新聞)

 

 

2022年4月8日付産経新聞【わたつみの国語り 第2部(4)】を転載しています

 

この記事の英文をWhaling Todayで読む

 

【わたつみの国語り】シリーズ
第1回:クジラは「資源」 捕鯨、工場制手工業の原点に
第2回:捕鯨は戦(いくさ)躍動する武の精神
第3回:包丁一本、威信かけ クジラ捕獲 昔も今も試される度量

 

 

コメントを残す