世界に言語が一つしかなかった頃の話という。人々は広い平野に街を造り、巨大な塔の建設に着手した。「天まで届く塔を築き、私たちの名を残そう」と。その企てに神は眉をひそめ、地上に多くの言語をまき散らした。
人々の混乱は言うに及ばず、塔は未完のまま砂塵(さじん)の中に姿を消し、行方は知る由もない。『旧約聖書』の中でもよく知られた「バベルの塔」の物語である。千古、塔は人のおごりを表し、聖書は神の裁きをもって戒めとした。それでも人は天を目指す-ものらしい。
現代人のこの試みは、果断か無謀かどちらだろう。首都の空をうがつ巨大な塔が生まれようとしている。東京駅前に計画された日本で最も高い390メートルの高層ビルは、「トーチタワー」と命名された。日本を隅々まで照らす松明(たいまつ)であれ、との願いが名の由来という。
多くをオフィスが占める地上63階建ての計画には、懸念もある。コロナ禍でテレワークへの移行が進み、都心のビルは空きも目につく。先日は東芝が、職場面積の削減を打ち出した。そもそもランドマークに集った以前の生活様式に、人々が回帰するのかも怪しい。
働き方も働く場所も選べるこの時代に、立地の良さは売りの一つになっても決め手にはならない。都心に見切りをつけた企業を呼び戻すには、より強い磁力が必要になろう。開発を進める事業者の、知恵が問われる計画には違いない。日本一は高さだけ、では困る。
とまれ、まばゆい火が首都の真ん中にともる未来図は悪くない。完成は7年後という。世の混乱が収まる前にタワーが建つか、われわれが穏やかな日々を取り戻すのが先か。現代版の「バベル」に終わらせたくない希望の塔である。苦しいときの神頼みでも罰は当たるまい。
◇
2020年9月20日付産経新聞【産経抄】を転載しています