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広島の原爆投下に上空で遭遇した元海軍航空隊少尉、本田稔(ほんだ・みのる)さんが10月3日、老衰のため、98歳で亡くなった。
戦後70年の企画取材で滋賀県大津市の自宅でお会いした縁で、49日法要を終えたご遺族より連絡をいただいた。
故人のご冥福をお祈りします。
本田さんは予科練を経て海軍の戦闘機パイロットとなった。ラバウル航空戦を死力の限りを尽くし戦い抜き、撃墜王の異名も持つ。本土防衛戦では〝超空の要塞〟と呼ばれたB29と背面飛行で対峙(たいじ)した。当時のようすを操縦桿(かん)を握る手ぶりで、まるでつい先ほどの事のように説明する姿は今も鮮明に記憶している。
広島の原爆投下時に上空にいた唯一の日本人であったことはほとんど知られていない。海軍のエースパイロットと呼ばれた「歴史の証言者」の貴重な体験を、当時の記事、写真を再掲してお伝えします。
(写真報道局 奈須稔)
眼下の街が一瞬で消えた 戦闘機操縦士が見た広島・長崎の惨禍
昭和20年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣(つるぎ)部隊)少尉、本田稔=は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。
高度5千メートル。抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。
その瞬間だった。猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿(かん)は全く利かない。必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。
「街がない!」
広島の街が丸ごと消えていた。傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべてがれき。炎も煙もなかった。
やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。
「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」
そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。
正体は原子爆弾だった。
米軍B29爆撃機「エノラゲイ」は高度9600メートルからウラン型原爆「リトルボーイ」を投下、急旋回して逃げ去った。
午前8時15分、リトルボーイは地上600メートルで炸裂(さくれつ)した。閃光(せんこう)、熱線に続き、超音速の爆風が発生した。
本田が見たのは、この爆風で廃虚と化した広島の街だった。この後、大火災が発生し、この世の地獄と化した―。
本田が、広島に米軍の新型爆弾が投下されたことを知ったのは2日後の8月8日だった。翌9日、大村基地から大村湾を隔てて15キロ南西の長崎市で再び悲劇が起きた。
9日午前11時2分、B29「ボックスカー」はプルトニウム型原爆「ファットマン」を長崎市に投下した。第1目標は小倉(現北九州市)だったが、視界不良のため長崎市に変更したのだ。
広島と同様、空襲警報は発令されず、大村基地にも「敵機接近」との情報はもたらされなかった。
本田は食堂で早めの昼食を食べていた。突如、食堂の天幕が激しく揺れ、基地内は大騒ぎとなった。
まもなく上官が本田らにこう命じた。
「長崎に猛烈な爆弾が落とされて病院はすべてダメになった。収容できない被害者を貨車で送るから大村海軍病院に運んでほしい」
本田は手の空いている隊員20人を率いて海軍病院に向かった。
海軍病院前にはすでに貨車が到着していた。扉を開けると数十人が横たわっていた。だが、体は真っ黒で髪もなく、服も着ていない。男女の区別どころか、顔の輪郭も分からない。息をしているかどうかも分からない。
「とにかく病院に運ぼう」。そう思い、担架に乗せようと1人の両腕を持ち上げるとズルッと肉が骨から抜け落ちた。
甲種飛行予科練習生(予科練)を経て海軍に入った本田は昭和16年の日米開戦以来、インドネシア、トラック諸島、ラバウルなど各地で零式艦上戦闘機(零戦)の操縦桿(かん)を握り続けた。ガダルカナル島攻防では、盲腸の手術直後に出撃し、腹からはみ出した腸を押さえながら空戦したこともある。本土防衛の精鋭として剣部隊に配属後も、空が真っ黒になるほどのB29の大編隊を迎え撃ち、何機も撃墜した。この間に何人もの戦友を失った。
そんな百戦錬磨の本田も原爆の惨状に腰を抜かした。「地獄とはこういうものか…」
剣部隊司令で海軍大佐の源田実(後の航空幕僚長、参院議員)は本田にこう語った。
「もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら俺が体当たりしてでも阻止する。その時は一緒に出撃してくれるか」
本田は「喜んで出撃します」と返答したが、その機会は訪れることなく8月15日に終戦を迎えた。
戦後、本田は航空自衛隊や三菱重工に勤め、テストパイロットとして操縦桿(かん)を握り続けた。92歳(取材当時)となった今も広島、長崎の悲劇を忘れることはない。そして原爆搭載機に向かって出撃できなかった無念もなお晴れることはない。
「長崎の人たちには本当に申し訳ないと思っています。本土防衛の役目を担った私たちがあんなに近くにいたにもかかわらず…」
本田は涙をにじませ、こう続けた。
「戦争というのは軍人と軍人の戦いのはずだ。だから原爆は戦争じゃない。非戦闘員の真上で爆発させるんですから」 (敬称略)