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「流星刀」。メルヘンチックな空想の刀剣か、はたまた戦国アニメに登場する必殺の武器かと思いきや、れっきとした日本刀だ。宇宙から降ってきた隕石(いんせき)を素材にして鍛えられた刀のことを指し、命名したのは何と旧幕臣であり明治政府の要職も歴任した榎本武揚。同じような素性を持つ刀剣類は太古から各地で作られてきたようで、なかなかに奥深い「流星刀の世界」の一端をのぞいてみた。
いぶし銀の輝き
「『流星刀』ってご存じですか?」。兵庫県佐用町に鍛刀(たんとう)場を構える高見國一(くにいち)さん(48)はこう話し、おもむろに短刀を取り出した。平成4年に刀づくりの世界へ入り、11年に独立。最も権威のある日本刀審査会「新作名刀展」(現在は現代刀職展)で最高賞などの受賞を重ね、令和元年に最年少で刀匠の最高位にあたる「無鑑査」に認定された。同県を代表する刀工だ。
短刀は刃の長さが30センチほど、まだ研ぎなどが施されておらず、やや鈍い輝きを漂わせていた。「日本刀は通常、玉鋼(たまはがね、たたら製鉄で得られる純度の高い良質の鋼)を原料にして作るんですが、この刀には3割ほど、隕鉄が含まれているんですよ」
隕鉄(鉄隕石)とは、組成の大半を鉄が占める隕石のこと。これを玉鋼に混ぜたり、100%隕鉄で作ったりした刀を「流星刀」と呼ぶのだそうだ。
高見さんは、愛好家から「隕鉄で刀を作ってみませんか」と依頼を受け、原料の供給を受けて平成29年に短刀2振を鍛えた。1振りは仕上げて依頼主に納め、手元に残るのはその時のもう1振りだ。
「隕鉄を混ぜすぎると玉鋼の持つ粘りが減り、うまく鍛錬できない」と感じ、勘で混合の比率を3割にしてみた。制作中、材料を高温で加熱する際の炎がいつもより黄色がかっているのが印象的だったという。
「研いでみるといぶし銀のような輝きで、刀身に現れる肌模様も玉鋼だけのものとは違って独特だった」と振り返る。
完成品の出来栄えが気になり、依頼主を訪ねた。日本刀愛好家で、鉱物コレクターでもある同県小野市の田中奨治さん(63)。所蔵する鉱物の一つ、「カンポ・デル・シエロ隕石」(1500年代にアルゼンチンで見つかった大型の隕鉄)を一部切り出し、刀にしてもらったという。
「刀工を支援したいと思っていて、高見さんにはいつもと違う作刀を経験し、幅を広げてほしかった」と田中さん。出来については「おもしろい刃文だ」と気に入っている。
列強に対抗!?
「名付け親は榎本武揚なんですよ」。流星刀ファンらでつくる「流星刀研究会」を主宰するtessen(テッセン)さん(30)が教えてくれた。同会が編集・発行した「流星刀入門」によると、榎本は明治28年、富山県でその数年前に見つかった「白萩隕鉄第1号」を入手し、それを材料にして5振りの刀を作らせた。そして、それらを「流星刀」と呼んだのだった。榎本はなぜ流星刀を作らせたのか-。
「かつてロシアに滞在していた際、皇帝から隕鉄で作ったサーベルを見せてもらったそうです。博識で知られる榎本でしたが、隕石でできた刀剣との出合いは衝撃だったのでしょう」とtessenさん。「列強の力の象徴として彼の目に映ったのかもしれない。日本も高度な文明を持つ国だという証しにしたかったのでは」と思いを巡らせる。
榎本は、「岡吉國宗」という刀工に長刀2振りと短刀3振りを作らせた。岡吉はこのうち4振りを「隕鉄7、玉鋼3」、短刀1振りを「隕鉄1、玉鋼2」の比率で鍛えたという記録が残る。
この5振りの行方は-。長刀1振りは当時の皇太子(のちの大正天皇)の成人のお祝いとして皇室に献上し、もう1振りは榎本が創設した東京農業大へ、榎本家から寄贈されている。
また、短刀1振りは白萩隕鉄ゆかりの地である富山市科学博物館が所蔵。もう1振りは、榎本が建立に関わった北海道の神社に納められた。残る1振りは、中国大陸に渡っていた榎本の子孫が戦後、引き揚げる際、住んでいたところへ埋めたとも伝えられ、行方が分かっていないそうだ。
星に願いを
隕鉄を原料にした刀剣類の製造例は、トルコにある4300年前の遺跡から見つかった短剣や、エジプト・ツタンカーメン王の副葬品だった短剣など、世界各地に古くから残っている。鉄の製錬技術がまだなかった時代はとくに、ほぼ「鉄の塊」の隕鉄が貴重な刀の原料だったのだろう。
「流星刀入門」では、流星刀を作っている現代の刀工として、故人を含め8人を紹介する。高見さんもその一人で、「隕鉄の含有率を勘で決めたんですが、榎本の作らせた流星刀とほぼ同じで驚いた。また作りたいと思える、貴重な経験でした」と話す。
作った動機や製刀過程などは各刀工それぞれだが、共通するのは「刀工のチャレンジ精神です」とtessenさん。「宇宙のロマンあふれる材料で、これからも多くの刀匠たちが魅力的な流星刀を作り出してほしい」と〝星〟に願いを込めた。
筆者:小林宏之(産経新聞)