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歌川国芳(うたがわ・くによし)には、このほかにも多くのすぐれた作品がありますが、それらはこれから徐々に紹介することにしましょう。 その前に国芳という浮世絵師が、浮世絵界の中でどのような地位にあるのかを、皆さんに知っておいて頂いた方が良いのではないかと思います。

 

まず国芳は、「歌川派」という流派に属します。幕末の浮世絵界は、歌川派が大きな勢力を持っており、三代豊国(国貞)や広重も、この流派に属します。この歌川派の他には、北斎派、鳥居派などがありますが、北斎派は版画より肉筆と読本の挿絵、鳥居派は芝居の看板絵に限られているのに対し、歌川派の絵師たちは、浮世絵版画のすべての仕事は元より、読本、草双紙、広告類に至る、庶民の生活美術のすべてを適格にこなせたため、版元に絶大な信用を持っていたのです。そのため国芳は多くの弟子たちを使って敏速に注文をこなしたのでした。

 

ところで、その国芳一門の中での出世頭は「月岡芳年(つきおか・よしとし)」です。彼は14歳にして、早くも三枚続きの合戦絵を描いています。もっともこの作品は国芳の合戦絵の影響が強いのですが、自分の個性に目覚めるのも早かったのです。

 

Master

 

師匠の国芳は、文明開化を体験することなく、文久元年(1861年)に他界しましたが、芳年は世紀末の大変動の真っ只中で、その多感な青年時代を過ごしました。当然彼の浮世絵が、その影響を受けないはずがありません。当時流行した血生臭い事件をテーマにした小説や芝居が大衆に喜ばれ、彼の元には、こうしたテーマの注文が殺到しました。彼は、たちまち「血みどろ絵師」などと言われ、もてはやされました。しかし大変優れたデッサン力を持つ芳年の作品は、その人気に溺れ、俗に流れることなく格調の高さを保ち、秀作を続々と生み出しました。

 

それでは芳年の初期の作品から「倭館百物語 頓欲の婆々」をご覧いただきましょう。

 

 

この物語は昔から愛されてきた舌切り雀のお話です。いじめられていた雀を助けたお爺さんは、雀たちから大小のつづらをもらって帰り、開けてみると金銀の小判がザクザクと出てきました。それを見た欲張りのお婆さんも雀たちのもとへ。大小のつづらを見せられたお婆さん。大きなつづらを持って帰り、開けてびっくり。様々な化け物が出てきてお婆さんは腰を抜かします。

 

お婆さんがびっくりしてのけ反るポーズが面白いですね。芳年は晩年にも同じテーマの作品「新形三十八怪撰 おもいつづら」を描いています。

 

 

この二つの作品を見比べると、若描きは線が大らか、晩年作は線がシャープになって、より現代的です。もう一点、芳年の代表作ともいえる「芳流閣両雄動」大判二枚続きを紹介しましょう。

 

 

これは馬琴の八犬伝で知られる有名な芳流閣の名場面です。犬塚信乃と犬飼現八の両雄による争いは、多くの絵師によって描かれています。師の国芳にも同じ場面を描いた傑作がありますから、芳年も国芳の作品を意識して描いたと思いますが、彼は見事に国芳のそれに負けない傑作で応えました。

 

悳俊彦(いさを・としひこ、洋画家・浮世絵研究家)

 

 

【アトリエ談義】
第1回:歌川国芳:知っておかねばならない浮世絵師
第2回:国芳の風景画と武者絵が高く評価される理由
第3回:浮世絵師・月岡芳年:国芳一門の出世頭
第4回:鳥居清長の絵馬:掘り出し物との出合い

 

 

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