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9月1日、デジタル庁が日本に発足しました。しかしデジタル庁の俯瞰的な存在意義について、幾らかでも具体的に認識している人はどれくらいいるでしょうか。それほど多くはないでしょう。そこで、このシリーズを始めるにあたり、日本に誕生したデジタル庁がインターネットとの関わりに於いて、どんな役割を国内で担い、世界とどう関わるべきかを書いてみます。
僕は現在、デジタル庁と直接の関わりはありません。しかし、インターネットを誕生から支え、その中で開発に携わってきた技術者で、設立以前から村井さんとその在り方を話してきました。インターネットを介して既存の国家や行政の仕組みが今後、どう変革していくと良いのか、一種の提言として読んでいただきたいです。
「国家」と「インターネット」
僕は、デジタル庁は日本という国家の中で設立された省庁であるにも関わらず、その名称から、活動は国家の枠をしばしばはみ出すことを理解、容認されているものとして捉えています。
「日本のインターネットの父」と呼ばれる計算機科学者の村井純氏と最近、対談し、『DX時代に考える シン・インターネット』(インタナショナル新書)を共著で出版しました。そこでも議論になったのが、インターネットは本質的に個人が全人類と繋がることのできる壁のない空間であるのに対して、便宜的に引いた線を境目として地球を分割するという考えがこれまでの国家です。つまり、「国家」と「インターネット」は相反する概念だということです。
そしてデジタル庁を支えるスタッフが主に在野の技術者から採用されたのは重要です。2020年代の技術者が育ってきた1990〜2000年代の間、彼らは生のインターネットの考え方に直接触れた可能性が高く、既存の省庁的な考えに影響されにくい面があると考えられます。しかし、当然ですが全員普通の日本社会の中で育ってきました。オープンソースのようなコードを皆でシェアする文化も理解しつつ、日本の民主主義、資本主義社会の中で育ってきたハイブリッドな人材ということになります。
世界的融合を起こす
インターネットは、人間のグルーピングを根本的に変更できる技術です。その変化があまりにも急激だったので人間は数十年かけて特に若い世代中心にその変更に追いついてきました。具体的にはSNSと呼ばれる仕組みを使って場所や時間の差があっても人々が集えるようになりました。同好グループが集ったり、遠く離れてしまった家族が頻繁に意思疎通できたり、投稿した記事や写真に後から人が集まるといったことは説明するまでもないくらいスマートフォン以降の世界では普及しています。
加えて、僕たちは望めばさまざまな複数のアイデンティティを使い分けられるようになりました。極端な例が匿名の場合で、コンテンツ内容の傾向により迎合および離反グループができたり、さらには争いが起きたりといったインターネット以前の社会では頻繁に起こり得なかったことが日夜起こっています。
インターネットによって人々が自由にグループを作れるようになったように、組織同士もまた自由にメタ組織を作れるようになっています。国家のような大枠であっても例外ではありません。2021年現在、デジタル庁のような組織は世界で一つしかありませんが、同様なインターネット親和性の高い国家機関が他国にできた場合、協力関係を築けることは想像に難くありません。
国家間の価値観の相違が存在するのは当然ですが、インターネットを前提としたデジタルな組織はその人材も含めて境目のない融合が構造的に可能で、そのような融けた状況に必然的になるだろうと思っています。
この世界的融合を起こせるインターフェイスを持つ事こそデジタル庁の役目であり、日本が先鞭をつけつつ真似されることを積極的に推進し、世界に貢献できる点です。
と、これだけ書いてがんばりましょうで締めくくれれば話は簡単なのですが、情報統制を目論む国ではインターネット遮断が行われることがあるのは周知の事実です。ミャンマーやエジプトは記憶に新しいところです。
民主主義の調整役
中国は情報統制、プラットフォームへの強制の両方を恒常的に行っています。
また、ロシアによるApple, Facebookのオフィス開設強要などSNSプラットフォームの独立性を国が脅かすような事案もつい最近起こってきています。
デジタル庁はこの情報における自由主義、民主主義がどのような形になるべきなのかを模索し、破綻をきたさないように調整するバランサーでもあるのです。
インターネットが成立する前から経済や福祉の考え方が国によって違うまま世界は維持されてきました。
ある意味、国境があることでその世界は維持可能だったのだとも言えます。
この旧世界に、国境のないインターネットが普及したことで、全てを溶かし境界をなくす媒質が注入されたことになります。つまり我々はより注意深く「我々はこれからどう在るのが良いのか」を考えなくていけない時代に否応なく突入したのです。
デジタル庁は官庁なので国を跨ぐこのような観点の説明や目論見は出てこないとは思います。しかし概念としてのデジタルが持つ性質がいろんな制約を溶かしていく、むしろ溶かさざるを得ないのです。こういう状況は、誰がなんと言おうと全地球共通に同時多発的に起こっています。
そのような社会には個人でも貢献できる、影響を及ぼせるポイントがたくさんあるはずです。ワクワクしますね。
筆者:竹中直純