
馬厩肥の上にピートモスが乗り、マッシュルームが生えてくる=美浦村・芳源マッシュルーム(JA茨城県中央会提供)
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昭和37年、初の東京オリンピックを2年後に控えた日本は、欧米諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」の真っただ中にあった。この年に大ヒットした曲「いつでも夢を」の通り、誰もが未来に希望を抱いてがむしゃらに働いていた。
同年10月、ロンドンで奇妙な髪形とスリムなスーツ姿の若者4人が「Love Me Do」でレコードデビューした。あのビートルズだ。内巻きに前髪をそろえた髪形はマッシュルームカットと呼ばれ、あっという間に若者をとりこにし、2年後にアメリカ、そして世界へと進出。社会を変えるシンボルになった。
多くの日本人がマッシュルームというキノコの存在を知ったのは、おそらくこれがきっかけだろう。そして東京オリンピックで問題となったのは、世界で一番食べられているきのこのマッシュルームが日本にほとんどなかったことだ。
それなら海外の食卓に欠かせない食材を作ろう、と動き始めた人たちがいた。その中の一人、現在の千葉県香取市の菅佐原芳夫さんは米作りの裏作としてオランダの技術を学び、生産を拡大していった。
プラント30カ所は県内に
菅佐原さんは42年創業の芳源(よしもと)マッシュルームの代表。同社の88あるプラントのうち30は茨城県美浦村にあることから、同県はマッシュルーム生産額で全国3位だ。

マッシュルーム栽培のベースに敷かれているのが培地と呼ばれ、2層構造の下側には馬厩肥(ばきゅうひ=わらと糞)が使われている。美浦村には2000頭以上の競走馬を収容する「JRA美浦トレーニング・センター」(美浦トレセン)があり、ここから排出される馬厩肥が良質のマッシュルームを生み出す。
これに1カ月以上をかけて殺菌や培養を施し、良質の培土として表面にピートモス(天然の有機質土壌改良材)を覆土し、菌糸を成長させていく。黒いピートモスの表面が真っ白に菌糸で覆われてからニョキニョキとキノコが出来上がれば、やっと収穫できる。

大阪万博を機に見直される
日本のマッシュルーム産業は順風満帆に成長してきたわけではない。45年の大阪万博を機に生のマッシュルームが見直され、ファミレスの普及とともにいったんは洋食需要に乗った。
しかし売り上げは50年がピーク、以降は稲刈りにコンバインが登場し、培土に使うわら集めに苦労した。さらに55年から平成12年ごろは、日本中でマッシュルームが味わえなくなった。中国産の塩漬け製品の缶詰が大量に出回り、いわゆる飾り物として重宝されておいしく食べる理由がなくなったのだという。
それでも生のマッシュルームの味を追求する一方でサラダ、アヒージョ、天ぷら、酒蒸し、ラーメンのスープ。さらにはみそ汁と多様に使えて、だしもおいしいことをアピールし、ファンを拡大してきた。
にもかかわらず、年間1人当たりの消費量はわずか32グラム、マッシュルーム2個分でしかないという。今回のこの記事をきっかけに、ぜひマッシュルームを具に使ったみそ汁を味わってみてはいかがか。
筆者:萩谷茂(JA茨城県中央会 農業政策アドバイザー)
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2025年6月9日産経ニュース【いばらき農業探訪】を転載しています
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