今年は昭和100年、戦後80年に当たる。6月3日、89歳で亡くなった長嶋さんは、その昭和や戦後を代表する巨星、比類なきスーパースターだった。
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国民栄誉賞の表彰式で、金のバットを授与された長嶋茂雄さん(右)と介添えする松井秀喜さん=2013年5月、東京ドーム

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みんな、長嶋茂雄さんが好きだった。原っぱに集う昭和の草野球少年たちは「背番号3」を奪い合った。「アンチ巨人」を公言する多くのお父さんも、長嶋さんの活躍だけは笑顔で許容した。戦後の復興から経済大国へと歩み、明るい未来を信じていた時代を象徴する日本中の広場や茶の間の光景だった。

今年は昭和100年、戦後80年に当たる。6月3日、89歳で亡くなった長嶋さんは、その昭和や戦後を代表する巨星、比類なきスーパースターだった。

1959(昭和34)年6月、プロ野球初の天覧試合の阪神戦で、サヨナラ本塁打を放つ巨人の長嶋茂雄選手=後楽園球場

昭和34年の天覧(てんらん)試合でライバルの村山実さんから放ったサヨナラ本塁打に代表される、ここぞの場面で期待を裏切らない勝負強さや、ヘルメットを飛ばす豪快な空振りにプロ野球ファンは熱狂した。

1968(昭和43)年9月16日、空振りでヘルメットを飛ばす巨人・長嶋茂雄選手 =後楽園球場

盟友、王貞治さんとの「ON砲」で魅了した打席ばかりか、猛烈な打球に飛びつき、一塁への送球後に見得(みえ)を切るように右手をなびかせる三塁の守備でもスタンドを沸かせた。

ヘルメットは飛びやすいように大きめのものをかぶり、送球後の所作は歌舞伎を参考にした。これらは、ファンを楽しませるために意図したものだったのだという。

ONの活躍が牽引(けんいん)し、プロ野球は国民的娯楽に押し上げられた。長嶋さんの「ミスター巨人軍」の呼称は、やがて「ミスタープロ野球」に昇格し、ついには「ミスター」だけで通じる国民の愛称に昇格した。

打球の行方を見る巨人の長嶋茂雄選手

その底抜けの明るさと、あくまでポジティブな姿勢が人気の源泉でもあった。「失敗は成功のマザー」といった数々の迷語録も愛された。重要な一戦を前にした心理的重圧への対処法を聞かれると「プレッシャーを楽しむこと」と答えた。宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」という高名な一節を「つまらないよね」と一蹴し、中学卒業の寄せ書きに「雨を喜び 風を楽しむ」と書いた。徹底的に前向きな性格は、少年時代から変わらぬものだったらしい。

高度成長期と共に歩む

昭和20年の終戦時、長嶋さんは9歳だった。東京など多くの都市が焼け野原と化したが、世界を驚かせた復興の速度は、日本人の勤勉さを物語る。

経済白書が「もはや戦後ではない」とうたった昭和31年、長嶋さんは立教大学の三塁手として、東京六大学のスター選手だった。33年に巨人でプロ野球にデビューすると1年目に本塁打王と打点王の2冠に輝いた。

1963年11月1日、日本シリーズ西鉄戦で、左越え本塁打を放つ巨人の長嶋茂雄選手 =後楽園球場

35年には池田内閣が「所得倍増計画」を打ち出し、「いざなぎ景気」が始まる40年は、巨人9連覇の1年目でもあった。

車、クーラーとともに「新三種の神器」と呼ばれたカラーテレビは各家庭の茶の間の主役であり、夜は父親が巨人戦のナイター中継のチャンネルを独占した。それが昭和の日本の風景であり、その中心にはいつも、長嶋さんの姿があった。

1974年10月14日、現役引退の日の長嶋茂雄(中央)と王貞治(左)

令和3年には文化勲章を受章した。スポーツ界からは「フジヤマのトビウオ」と称された水泳の古橋広之進さん以来、2人目の快挙だった。古橋さんは戦後復興の、長嶋さんは高度成長期という、それぞれの時代を象徴する存在だった。

2000年10月、巨人が6年ぶりの日本一。場内を一周する長嶋茂雄監督(左)と松井秀喜選手ら=東京ドーム

系譜を継ぐ新星よ育て

日本代表監督としてアテネ五輪を目指していた平成16年、脳梗塞で倒れて入院し、以降は身体が不自由となった。それでも厳しいリハビリに挑む姿を公開し、表舞台にも出続けた。

常に人に見られる存在であることを自らに強いた。それが同じ障害に苦しむ人々に勇気を持ってもらう一助となる。そう信じての行動だったのだろう。

25年には、まな弟子の松井秀喜さんとともに国民栄誉賞を同時受賞した。

松井さんは現役引退時、思い浮かぶシーンを「長嶋監督との素振りの時間」と答えた。2人の時間は松井さんの渡米後も続き、自宅やホテルの床に置いた携帯電話の上で振るバットの風切り音を、長嶋さんは国内で聞き続けた。

国民栄誉賞の受賞式典ではオープンカーで並び、不自由な右手を隠して左手を振る長嶋さんの横で、松井さんも左手だけを振り続けた。「監督の元気を際立たせたかったから」と松井さんは後に話した。心優しい後進を育てたことも、長嶋さんの大きな功績である。

2009年2月、WBC日本代表と巨人の練習試合を前に、イチロー選手(左)を激励する長嶋茂雄さん=宮崎市のサンマリンスタジアム宮崎

海の向こうでは、試合前に長嶋さんを追悼した大谷翔平選手が特大の本塁打を放った。令和を象徴する存在へ。スターの系譜がこうして紡がれていく。

長嶋茂雄氏

2025年6月4日付産経新聞【主張】を転載しています

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