1942年、南太平洋のソロモン諸島・ガダルカナル島での日米両軍の戦いは、先の大戦で日本が初めて撤退を強いられ、戦局の分水嶺になった。敗北を決定づけたのは、陸軍と海軍の意思の齟齬、日本軍としての統率のなさだった。
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ガダルカナル島のヤシ林を行進する日本軍兵士=昭和17年11月(共同)

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昭和17(1942)年、南太平洋のソロモン諸島・ガダルカナル島(ガ島)での日米両軍の戦いは、先の大戦で日本が初めて撤退を強いられ、戦局の分水嶺(ぶんすいれい)になったといわれる。補給を徹底的に断たれた日本軍の戦没者は2万人余り。うち約7割が飢餓、病気によるもので、ガ島は「餓島」と呼ばれた。制海権・制空権の喪失とともに、敗北を決定づけたのは、陸軍と海軍の意思の齟齬(そご)、日本軍としての統率のなさだった。

ガ島は米国とオーストラリアを結ぶ線上にある。日本軍が兵站(へいたん)の拠点とするラバウル、米軍の兵站拠点のエスピリトゥサント島のいずれからも約千キロで、双方にとって重要な島だった。

日本海軍は昭和17年7月、米豪の連携を絶つ前線としてガ島に飛行場を建設。米軍は8月7日、海兵隊1万人超を上陸させて飛行場を占拠した。これを奪回すべく、大本営では陸軍部(参謀本部)と海軍部(軍令部)が協力して作戦に臨むこととし、陸海軍は協定を結んだが、指揮系統は異なっていた。

大本営は当初、敵の兵力を低く見誤り、軽装備の陸軍・一木支隊900人を投入。待ち構える米軍の火力にさらされ壊滅した。その後、川口支隊、第2師団、第38師団と部隊を投入したがことごとく退けられた。

苦境に至った大きな要因は、補給線の断絶にあった。米軍はラバウルからの輸送船を次々と沈め、ガ島の日本軍将兵は十分な武器や食糧がないまま戦闘に臨まなければならなかった。

「日本は陸海軍の戦略がかみ合わず、戦力を集中できなかった」。防衛研究所の齋藤達志2等陸佐(60)は、意思疎通の問題点を指摘する。

防衛研究所の齋藤達志2等陸佐

陸軍は「(部隊に兵站物資の)輸送が完全に行われて、初めて(飛行場の)制圧が可能」と考えたのに対し、海軍は「輸送のためには飛行場の制圧が先決」との立場。連合艦隊には、米主力艦隊への攻撃こそ重要で、輸送船の護衛は本来の任務外との考えもあった。ガ島での作戦は、この矛盾が解決されないまま強行された。

一方、米軍は南太平洋戦域での作戦を主導する海軍が海兵隊、陸軍も指揮する統合作戦を実施した。米軍も当初は補給に苦しみ、一時は島の放棄を考えるほど追い込まれたが、太平洋戦域最高司令官のC・ニミッツは、悲観的だった南太平洋戦域軍司令官を更迭し、海軍中将のW・ハルゼーを抜擢(ばってき)。海戦で積極的な作戦を遂行したほか、暗号解読やレーダー装備に勝り制海権、制空権を奪った。

「明確な目標を掲げ、戦力を集中させることは軍事の鉄則だ」と齋藤氏。ガ島の戦いでは、組織の統率面で問題点が表面化した。

それから80年余り。台湾有事が懸念される今、中国が、その戦訓を研究しているともいわれる。

届かぬ物資「絶食一週間」

「海軍の任務は、陸軍を安全に海峡を横断せしめ、あらゆる方法をもって上陸を支援し、その後は敵と海との危険にかかわらず、増援軍と補給とが適時に着くことを確保することにあった」。英首相のW・チャーチルが1944年、ノルマンディー上陸作戦時に述べた言葉。これは、日本海軍にも当てはまるはずだ。ガダルカナル島戦で本来海軍が果たすべき役割は大きかった。

日米双方の象徴的なデータがある。昭和17年8~11月、ガ島戦で潜水艦が挙げた戦果。撃沈した輸送船の数は、日本の6隻に対し、米国は10倍の62隻。米側が徹底して日本の補給線を狙い、日本海軍が防ぎきれなかったことを示している。

日本側はやむなく輸送に向かない駆逐艦で夜間に運んだ。夜にネズミが巣に餌を運ぶ様子に例えて「鼠輸送」と呼ばれたが、積載量が少ない。海岸への輸送に成功しても、米機の攻撃に遭い物資がなかなか届かなかった。

《輸送力不足の関係上(略)絶食数日間に至れる場合もしばしばあり(略)十二月中旬糧秣の揚陸困難なる時期にありては絶食五日-一週間に達せり》

前線への補給量を記した「『ガ』島に於ける糧秣揚陸交付数量調」に、切実な様子が記されている。密林内の将兵は壮絶な飢餓に苦しみ、戦力は著しく低下した。

昭和17年11月、大本営では撤退論が出始めたが、作戦失敗を意味するため、公式には言い出さない。だが12月26日、ようやく陸軍が海軍に申し入れ、31日の御前会議で撤退が決まった。

《在「ガ」島部隊は(略)陸海軍あらゆる手段を尽くして之を撤収す》

18年1月4日、大本営が発令した「ケ」号作戦は、準備期間を経て2月上旬に実施。撤退案浮上から約3カ月が経過していた。

ガ島に上陸した将兵約3万人のうち、戦没者は2万人余り。戦闘死は推定5千~6千人で、約1万5千人は栄養失調や病に倒れた。

「日本軍では、現地司令官の決断は見られない。大本営が官僚的に決め、責任の所在があいまいだった」。防衛研究所の齋藤達志2佐は、ガ島の撤退決断の遅さを戒める。「(将兵の)存在が無意味になる前にいかに動くか。その後も有効な戦力として投入するためにも、判断の時期は重要。本来そういう組織であるべきだった」

失敗の果て帰れぬ遺骨~取材後記

「なぜ、こんな遠い地で死ななければならなかったのか」。11年前、日本のはるか5600キロ南方にあるガダルカナル島で痛感した。飛行場奪回のために日本軍が通ったジャングルに足を踏み入れ、思いを強くした。

島といっても、面積は千葉県ほどもある。大部分は深い密林に覆われ、昼間でも薄暗く、じっとりとした湿気がまとわりつく。同行した元兵士は「当時は地図もなく、磁石を頼りに道を切り開いた」と語った。

日本は南方だけでなく、西はビルマ(現ミャンマー)、北はアリューシャン列島まで勢力を拡大。ガ島での作戦は、連合艦隊の基地があるトラック島を防衛するため、ラバウルを前進拠点とし、ガ島に飛行場を作った海軍に引っ張られる形で始まった。

当時、ニューギニア、ガ島と2方面に展開した陸軍の戦略は甘さが際立つが、海軍も同じだった。ノモンハン事件から日米開戦、敗戦まで幾度も名を連ねる陸海軍上層部の同じ人物が、ガ島戦でも登場する。彼らは、失敗を繰り返してもなおチャンスが与えられた。

惨状から80年余り。ガ島の密林内には、犠牲になった将兵らの遺骨が今も置き去りにされている。

筆者:池田祥子(産経新聞)

■ガダルカナル島の戦い 日米にとって戦略上の重要拠点だった地を巡る戦闘。日本軍は昭和17年8月、米軍に占領された飛行場の奪回を目指して上陸した。日本軍は次々と地上部隊を投入したが、激戦の中で補給が途絶え、ことごとく退けられた末、18年2月に撤退。大本営は敗退を隠蔽(いんぺい)するため、「転進」と言い換えて公表した。3次にわたるソロモン海戦や南太平洋海戦などで連合艦隊の損害も大きく、機動部隊の前線復帰に約1年半を要した。

2025年6月18日産経ニュース【深層の真相 防衛研リポート】を転載しています

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