
靖国神社を公式参拝した中曽根康弘元首相(昭和60年8月15日)
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戦後80年。節目の年なのに、首相の靖国神社参拝をめぐる議論はこれまでと比べて驚くほど静かだ。首相の靖国参拝にはさまざまな意見があり、日本国内でも一致していないのが現状だ。しかし、少なくとも先人たちが戦犯問題にすでに決着をつけてきた事実は日本人として理解しておくべきだ。
昭和20年8月15日に戦争が終わり、26年9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印された。「本来、戦争犯罪裁判――交戦法規違反という厳密な意味での戦争犯罪にかかわる裁判――は国家の戦争行為(軍事行動)の一環として実施されるものであり、平和条約(講和条約)の発効と同時に、当該条約中に特別の規定なき限り、戦犯裁判判決は効力を失うのが通例である」(佐藤和男青山学院大学名誉教授、「新版靖國論集」から)
ところが、そうならない仕掛けがサンフランシスコ講和条約第11条にあった。受刑者の赦免・減刑、仮出獄は日本単独で決められず、講和条約の関係国の同意と日本政府の勧告が必要とされていたのだ。

主権回復後も続いた服役
昭和27年4月28日に講和条約が発効し、日本は主権を回復した。この時点でも巣鴨拘置所には日本政府に移管された927人、フィリピン・モンテンルパに111人、オーストラリア・マヌス島に206人、計1244人が拘禁されていた。
主権を回復したのに服役期間が続くのはおかしいじゃないか―。国民から服役者に同情が集まり、各地で戦犯釈放運動が起こる。先鞭(せんべん)をつけたのは日本弁護士連合会(日弁連)だった。同年5月27日に戦犯釈放特別委員会を設置、6月21日には「平和条約第11条による赦免の勧告に関する意見書」を出し、及び腰になっていた外務省に対し速やかに全戦犯への赦免の勧告を関係国に出すよう求めた。
筆者:田北真樹子(産経新聞編集局特任編集長)
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2025年5月25日付産経新聞【サンデー正論】より
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