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すみだ北斎美術館主任学芸員、奥田敦子です。今回は、北斎の代表作「冨嶽三十六景」を通して北斎の技術と着想の面白さをご紹介していきます。

 

「冨嶽三十六景」は、北斎が70代で発表した錦絵の揃物(多色摺の浮世絵版画シリーズ)で、各地から見える富士山をめぐる風景を描いた全46図からなります。

 

刊行の背景は、北斎の人気はもちろんのこと、富士講という山岳信仰が、江戸後期には「江戸八百八講、講中八万人」と謳われるほど、庶民の間で盛んになっていたことが挙げられます。一方、シリーズの企画意図は、富士遥拝や登山のための名所案内というよりも、場所、季節、天候、時間など、さまざまな要因で見え方の異なる富士を描写することにあったことが、当時の出版広告などから指摘されています。

 

「冨嶽三十六景」は、浮世絵の中の名所絵に属しながら、名所といった概念を超越し、自然そのものに焦点を当てています。また、単に富士山を賛美する姿勢ではなく、奇抜な構図や幾何学的な構成、あっと驚くような意外な仕掛けを施しています。その姿勢や奇想が、時代や文化を超えて人々を惹きつけていると言えるでしょう。

 

それでは、全46図ある「冨嶽三十六景」の中から、3つの着眼点で北斎の技術と着想の面白さをご紹介していきましょう。

 

 

1 空間を構成する

 

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、西洋の透視図法(線遠近法)を用いて奥行を強調した浮世絵の一様式「浮絵」が生み出されました。北斎も20代の頃に浮絵を盛んに制作しています。また、40代では銅版画や油絵の陰影表現を応用した洋風風景版画を精力的に制作しました。そうした西洋画法の吸収と単なる模倣に終わらない創意工夫によって、北斎は独自の風景画を制作していきます。

 

そうした土壌の上で、北斎は「冨嶽三十六景」において、西洋の透視図法を用いて奥行きのある空間表現を打ち出した作品や、手前のものを大胆に拡大し、遠くのものを小さく描くことで空間の広がりを表現した奇抜な構図の作品など、様々な試みをしています。

冨嶽三十六景 江戸日本橋

 

たとえば、北斎が西洋の透視図法を効果的に用いている事例として、「江戸日本橋」を見て行きましょう。日本橋は五街道の基点であり、交通の要衝でした。また、近くに日に千両の取引が行われたという魚市場や大店が立ち並び、江戸経済の中心地でもありました。その日本橋を画面下辺すれすれに一部のみ表現し、その分生まれた空間を、西洋の透視図法によって奥行を強調した川と蔵の家並み、広がる空に充てています。そのことにより、ずらっと蔵の建ち並ぶ日本橋の活気と、画面奥の江戸城の櫓から左上の富士山に至る空間の広がりを強調しています。

 

ちなみに、実際には日本橋から江戸城を望むと、富士山は本図よりも左に位置し画面には入らないことから、北斎が描いたのは実景ではないことが近年指摘されています。このことからも北斎は実景を忠実に写すよりも、絵としての見え方を優先的に考えていたと思われます。

『北斎漫画』三編 三ツわりの法 文化14年(1817)

 

北斎が西洋の透視図法(線遠近法)に関心を示していたことを物語っています。

 

 

2 ○☓△で作られた世界

 

北斎は「冨嶽三十六景」の中で、富士の三角形を基準にして、その他のモチーフに三角形の相似形を用いたり、円や弧などを組み合わせるなど、幾何学的な構図を用いた作品を発表しています。その背景には、「冨嶽三十六景」より遡ること、約20年前に刊行された絵手本(絵の教本)『略画早指南』で、動物や人、風景など、ありとあらゆるものを角や丸であらわすことができるとして、定規とぶんまわし(コンパス)で作画する方法を試みた経験も生きていると思われます。北斎が作品に秘めた〇と△の幾何学図形を読み解いてみましょう。

 

まずみなさんの目で「尾州不二見原」をご覧になって、作品に北斎が秘めた〇と△と探してみてください。

冨嶽三十六景 尾州不二見原(ふがくさんじゅうろっけい びしゅうふじみばら)

 

答えは、〇は桶職人が作る巨大な円い桶、△はその中に見える小さな富士山です。「尾州不二見原」とは、尾張名古屋城下のある台地の東端に位置した富士見原(愛知県名古屋市中区)のことで、崖下に広がる田畑の遥か遠くに山々を望める景勝地でした。本図でも桶職人の背後に崖と田畑の広がる茫々たる情景を描いていますが、本来見えるはずの近郊から木曽・信州にかけての山々は省略し、森の先に富士山を配しています。北斎は、文化年間(1804-18)の名古屋訪問時に当地を訪れていた可能性がありますが、実景へのこだわりは薄く、巨大な円い桶の中に小さな三角形の富士をおさめる斬新な構図を試すことを重要視していたと思われます。

 

 

3 驚異の自然

 

役者絵や美人画といった浮世絵のジャンルの中で、「冨嶽三十六景」は名所絵に属します。名所絵とは有名な名所を紹介した風景画です。しかしながら北斎は、このシリーズで名所とはいえない場所から描いた富士の絵を発表しています。その代表格が三役と呼ばれる「凱風快晴」「神奈川沖浪裏」「山下白雨」です。これらは名所どころか、どこから描いたのかも判然としません。それは北斎が自然そのものに焦点をあて、自然の厳しさ、時の移ろいの中で刻々と変わる富士の表情を描き出すことに集中し、余分なものを削ぎ落とした結果と言えます。

 

その代表例として、海外の人々から「Big Wave」の名で親しまれる人気の作品「神奈川沖浪裏」をご紹介しましょう。題名から東海道3番目の宿場である神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)の沖から富士山を望む図を描いたとわかりますが、題名がなければどこから描いたかわからないでしょう。また、神奈川沖ということがわかったとしても、海上のどこかは謎です。では、北斎は本図で何を描こうとしたのでしょうか。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏(ふがくさんじゅうろっけい かながわおきなみうら)

 

波間に見える船は、江戸湊(現在の東京湾)周辺を主とする漁村から江戸へ鮮魚を急いで送る押送船です。巨大な浪が水飛沫をあげながら力強く立ち上がり、その大自然の猛威に翻弄される人間、それに対して超然と静かにたたずむ富士山を表現したかったと思われます。手前に大波を配し、その弧を描くカーブの先の崩れ落ちそうな波頭の下に、小さく富士山を配すという奇抜な構図も、描きたかったものでしょう。

 

大自然と小さな人間の対比、荒れ狂う大波と遠くに鎮座する富士山というドラマティックなテーマと、一度見たら忘れられないインパクトのある構図は、海外の多くの芸術家に影響を与えており、フランスの作曲家ドビュッシーは交響詩「海」を作曲し、そのスコア(楽譜)の表紙にも使用されています。なお、当館が所蔵する「神奈川沖浪裏」は、状態がよいため空の色がはっきりと見え、雲の形も明確にわかります。

 

このように、「冨嶽三十六景」には、さまざまな北斎の技術や着想の面白さが込められており、1図1図読み解いていくと、有名な三役以外のこれまで注目していなかった作品の魅力、また北斎の凄さも感じていただけることと思います。今回は一部のご紹介となりましたが、ぜひ下記の本で「冨嶽三十六景」の全貌とその魅力をご堪能いただければ幸いです。

 

本書『THE北斎 冨嶽三十六景ARTBOX』は、オリパラと北斎生誕260年を記念した当館の企画展「THE 北斎 冨嶽三十六景と幻の絵巻」と連動する予定でしたが、来夏に延期となりました。出版に関しては、出版元の講談社と、ステイホームのこの時期、弊館の「冨嶽三十六景」で少しでも楽しい時間を過ごしていただければと考えて、お届けすることにいたしました。弊館初の「冨嶽三十六景」公式本として色味に気を配り、親しみやすい解説を心がけましたので、一人でも多くの人に手にとっていただければ幸いです。

 

著者:奥田敦子(すみだ北斎美術館 主任学芸員)
東京学芸大学大学院修士課程修了。太田記念美術館主任学芸員を経て、すみだ北斎美術館の開設に準備段階から関わる。現在、すみだ北斎美術館主任学芸員として、開館記念展ほか多数の展覧会を企画開催。国際浮世絵学会理事。著書『THE 北斎 冨嶽三十六景ARTBOX』(講談社)、『広重の団扇絵 知られざる浮世絵』(芸艸堂)のほか、葛飾北斎・妖怪・花火などに関する論文・解説多数。

 

◎THE北斎 冨嶽三十六景ARTBOX◎

すみだ北斎美術館、初のオフィシャルブック。館所蔵の冨嶽三十六景すべてをコンパクトな判型にまとめ、作品のディテールを楽しめるガイドブック。(全46図一覧&MAP付き)

第一章 空間を構成する、第二章 ○×△で作られた世界、第三章 驚異の自然、第四章 形のないものを捉える、第五章 イリュージョンを仕掛ける、第六章 超絶表現、と6つの章からさまざまな切り口で、北斎生涯の代表作にして最高傑作「冨嶽三十六景」の魅力を紹介。天才の技術と着想が極まった全46図を堪能できる一冊は、すみだ北斎美術館1階のミュージアムショップ、又はAmazon.co.jp にて販売中!

 

◎すみだ北斎美術館情報◎

最新の開館情報は、すみだ北斎美術館ホームページにてご確認ください。
◎休館日 毎週月曜日(祝日の際は翌平日休館)
開館時 9:30~17:30(入館は17:00まで)
◎主催 墨田区・すみだ北斎美術館
◎住所 〒130-0014 東京都墨田区亀沢2-7-2 TEL 03-6658-8936
◎企画展公式ホームページ: https://hokusai-museum.jp/
◎アクセス
都営地下鉄大江戸線「両国駅」A3出口より徒歩5分
JR総武線「両国駅」東口より徒歩9分
JR総武線「錦糸町駅」北口より墨田区内循環バスで5分

 

 

この記事の英文記事を読む

 

【永遠の北斎】シリーズ
序:世界の人物100人に入った北斎の物語
1:『神奈川沖浪裏(グレート・ウェーブ)』の尽きせぬ魅力
2:北斎の優れたデザイン感覚
3:すみだ北斎美術館の「大江戸歳事記」展をご紹介

 

 

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