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戦後75周年を迎えた日本が目指すべきことは、ヤルタ体制からの脱却である。ヤルタ体制とは、大戦末期の1945年2月に米英ソ三大国がクリミア半島のヤルタで交わした密約に基づく対日戦後処理方針を中心とした国際秩序の枠組みを指す。ヤルタ協定が密約だったことと、協定内容を押し付けられた当事者が会談に含まれていなかったことなどから、ヤルタ体制は国際法に違反すると指摘しておかねばならない。

 

 

ヤルタ体制で分断されたモンゴル

 

当事者のひとり、日本は「欠席裁判」の結果、固有の領土である北方四島を旧ソ連に引き渡すことを強いられた。敗戦国ならではの理不尽な処遇だ。

 

もうひとりの当事者は戦勝国のモンゴルだ。モンゴルはゴビ沙漠を境に、地理的に南北二つに分かれる。1911年末にモンゴルは清朝から独立したが、南は日本、北はロシアと、二つの帝国の勢力範囲に組み込まれた。南モンゴルはその後、満洲国の一部となり、あるいはモンゴル自治邦(蒙疆とも)として日本型の近代化の道を歩んだ。北モンゴルはロシア・ソ連の援助を受けて、西洋型の近代化をモデルとして国家建設に励んだ。南北二つのモンゴルは民族の統一を実現させようという理念を共有し、奮闘を続けていた。

 

機会は1945年8月に訪れた。北モンゴル即ちモンゴル人民共和国はソ連と共に南モンゴルと満洲に進軍し、同胞を日本と中国の支配から解放した。統一国家を樹立しようとした政府代表団も軍と一緒に南モンゴルに入り、現地の人々を指導しながら復興に着手した。そこへ、ヤルタ協定の秘密の内容が伝えられ、民族の分断が強制されて今日に至る。

 

戦後の日本はいち早く復活し、世界の先進国となった。かたや、南モンゴルは中国の植民地とされた。経済的に搾取され、遊牧文明そのものが消滅した。日本時代に育った知識人と軍人らは「対日協力の罪」をかぶせられ、万単位で粛清された。

 

 

旧勢力圏に積極関与を

 

75年もの歳月が過ぎた今日、日本は自由主義陣営のリーダーのひとりとなった。ヤルタ協定で奪われた北方四島を取り戻すだけでなく、かつての植民地や支配地域の人々の政治的、社会的境遇にも積極的に関与すべき時期が訪れた、と自覚してもいいのではないか。

 

植民地は宗主国から独立さえすればいいのではなく、宗主国との交流の中で、近代国家としてのあり方について学ぶべきことが多い。日本が遅くまで外交関係を結んでいた台湾は後にアジアの優等生となったし、フランスや英国が旧植民地に能動的に関わり、民主化と経済発展に寄与した実例もある。

 

アジアの場合だと、モンゴル、チベット、ウイグル人は日本や西洋を敵と見なしたことはなく、古い帝国・中国からの独立こそが民族自決の目標であった。その目標がいまだに実現されていないので、日本と世界にはそれらの民族を助ける責務がある。日本は憲法を改正して、新しい国際秩序の構築に貢献すべき時がきている。好機を逸してはいけない。

 

筆者:大野旭(楊海英)(静岡大学教授)

 

 

国家基本問題研究所(JINF)「今週の直言」第709回(2020年8月11日)を転載しています

 

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