若くして亡くなった姉が最期に思ったのは、一人の男性だった-。長崎で語り部活動を続ける清野(きよの)定広さん(83)=長崎県大村市=が、大切に思っているものがある。原爆症で20歳で亡くなった姉が、死ぬ間際までつけていた日記だ。被爆した街の惨状への嘆きや男性への恋心が赤裸々につづられていた。9日、長崎は被爆から75年。明るい性格だった姉の姿は弟の心に今も息づいている。
《遂(つい)に長崎も焼け野原と化してしまった。忘れや(よ)うとしても忘れきれない。生き地獄だった》
12歳年上の姉、フミさんが、長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日からつけ始めた日記だ。
同日午前11時2分、フミさんは爆心地近くにいたが、奇跡的に生き残った。すでに市外に疎開していた家族と合流し、佐賀県へ避難した。だが原爆は徐々に姉の体をむしばみ、筆跡は日を追うごとに弱々しくなっていく。
《菊川さんに気に入られるようできるだけの努力をしてすこしでも良くならう》
同月17日にそんな言葉を残し、わずか1週間あまりで日記は途絶えた。「菊川さん」はフィリピンに出征したフミさんの思い人。会える日を心待ちにしていたが願いはかなわず、9月13日にフミさんは亡くなった。
きょうだいが保管していた日記の存在を知ったのは、約半世紀後。フミさんの法要の場だった。「ただただ驚きましたね。フミ姉さんがこんなことを感じていたなんて」
清野さんは約10年前に語り部となり、長崎のほか、昨年は米国でも活動した。子供たちにわかりやすく伝えようと、当時の様子を絵にした。きのこ雲、廃虚と化した街。そして、亡くなる間際のフミさん-。記憶の中では、髪がごっそりと抜け、体中に紫色の斑点が浮かんでいた。
絵の具でできるだけ忠実に表現しようとしたが、思うような色が出せず、筆が止まった。「サダ坊、あんたは姉ちゃんにこんな色を塗るんか」。フミさんの声が聞こえた気がした。結局、描いたのは唇にうっすら紅をさした元気なころの姉の姿だった。
活発な文学少女だったが、清野さんが物心ついたときにはすでに代用教員となって実家を離れており、一緒に過ごした記憶はほとんどない。ただ、今でも風呂で、フミさんが好きだった唱歌「早春賦(そうしゅんふ)」を口ずさんでいることに気づく。
昨年、姉が思いを寄せた菊川さんの消息も分かった。原爆投下前に戦死していたが、親族と会うことができ、墓も訪ねた。「姉さんが好きやった人に会ってきたよ」。フミさんの墓参りでは、そう報告したという。
3年ほど前に日記を長崎原爆資料館に寄贈したが、子供たちに戦争を語るとき、必ずフミさんや日記のことも話すようにしている。広島と長崎の原爆投下で命を落としたのは、昭和20年だけで21万人超。その一人一人に、人生があった。「多くの人の命を無差別に奪った原爆を、決して許してはいけないのです」
筆者:江森梓(産経新聞)