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夫婦別姓論に隠されたウソ

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マスコミの暴走

 

この頃は、結婚しても当人たちが望めば別々の名字のままでいられる「選択的夫婦別姓」の導入がマスコミでやたらと持ち上げられ、あたかもわが国の「夫婦同姓」の制度が男女平等に反しているかのように批判されることが多い。

 

6月23日に最高裁判所が、夫婦同姓を定めた現行の民法と戸籍法の規定が合憲であるという判断を示した際も、そうだった。その内容は平成27年の合憲判決を踏襲した妥当なものだったが、翌朝、産経新聞を除く大手新聞各紙は「司法に限界」(毎日)、「疑問は尽きない」(朝日)、「期待裏切られた」(読売)などと批判的な見出しや記事でこれを報じていた。

 

批判は自由ではあるが、そこには見過ごせない問題点もあった。最高裁はあくまで議論を憲法解釈に限定していたにもかかわらず、多くの新聞が「国会で判断促す」(朝日)などと、最高裁があたかも立法府に制度改正を促しているかのように論評していたことである。

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たしかに最高裁の決定には「この種の制度の在り方は、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならない」とあったが、この一節は夫婦別姓導入を国会に促したわけではない。夫婦同姓の現制度が合憲か違憲かという問題と、夫婦別姓という法制度を導入すべきかどうかという問題は別問題であり、後者を決めるのは最高裁ではなく、国会の仕事だと言ったに過ぎない。これは夫婦別姓推進のマスコミの我田引水である。

 

最高裁は司法府として国会が制定した法律が憲法違反ではないか、「違憲立法審査権」を行使し判断するだけである。夫婦同姓を定める民法と戸籍法を合憲だと判断しておきながら、国会に法改正の審議を命じることはできない。それは立法権の侵害であり、司法の暴走となる。新聞が夫婦別姓を推進し、国会に法改正を求めるのは結構だが、あたかも最高裁も推進論であるかのように印象付け、世論を醸成しようとするのは、事実の歪曲であり、それこそマスコミの暴走といわなければならない。

 

 

夫婦別姓は親子別姓、兄弟姉妹別姓への道

 

夫婦同姓という現制度は、夫婦とその子供が家族として一体であることを認識させる法制度である。夫婦別姓も可能な諸外国では家族に一体感がないなどというつもりはないが、日本が夫婦同姓にこだわってきたのには、それなりの理由がある。

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日本には戸籍制度がある。これはわが国の伝統に基づく制度で、一組の夫婦と未婚の子供を一つの姓を共有する家族として戸籍簿に登録し、家族の現状を公証するものだ。戸籍をなくすことは家族の法的な基盤を不安定にすることにもなり、その意味では夫婦だけでなく、子供のための制度でもある。

 

もし夫婦別姓を導入するとしたら、やはり子供の姓が最大の問題点になる。

 

例えば、「高橋」という夫と、「鈴木」という妻の間に息子ができ、「太郎」君と名付けるとすると、まず太郎君の姓を「高橋」と「鈴木」のどちらにすべきかで夫婦間に争いの種が生じ得る。話し合いで、夫の「高橋」をつけたとしても、高橋太郎君が成長したときに「なぜお母さんは鈴木なのに、僕は高橋なのだろうか」と疑問を抱かせることになる。次に娘が生まれ、仮に母親の「鈴木」姓をつけて「鈴木花子」とすれば、今度は兄妹でも「鈴木」と「高橋」とで姓が違うことになり、子供はさらに混乱する。

 

要するに夫婦別姓とは親子別姓、兄弟姉妹別姓にもなり得る制度なのだ。それを避けるため子供には両親の姓を両方継承させるという方法も考えられるが、そうすると、「高橋」と「鈴木」の間に生まれた太郎君は「高橋鈴木太郎」となる。違和感は否めないし、そういう子供たちが結婚するときにさらに問題が生じる。「高橋鈴木太郎」君が「山田山本良子」さんと結婚したら、その子供の姓は「山田山本高橋鈴木」である。さらにその子供が結婚すると…と考えていくと、姓は世代を重ねるごとに長くなり続ける。

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非現実的な話のようだが、実際に中国や欧米の夫婦別姓の国では、夫婦が相手の姓を互いに自分の姓やミドルネームに加え合ったり、子供の名前にもつけたりすることが多々ある。ただ、それでは結局、代を重ねるごとに名前が長くなるため、現実的には子供の姓を父親側のものとしてしまう例が多いようだ。要するに夫婦別姓の下、こういう杓子定規な男女平等の論理で姓を定めると、どこかで行き詰まるのである。

 

最近は、伝統的な「家」を守るという意識から唱えられる夫婦別姓論もある。一人っ子の女性が、結婚で代々受け継いできた姓が途絶えないように別姓を認めてほしいと求める例が代表的だが、これもその場しのぎに過ぎない。女性に別姓を認めても、その子供が夫の姓になれば結局、女性側の姓は途絶えるからだ。これは別姓論ではなく、途絶えた姓の再興制度導入などで解決すべき問題なのだ。

 

 

戸籍名だけがアイデンティティーか

 

何より夫婦別姓論が浅はかだと思うのは、役所に届け出た戸籍名だけにこだわり過ぎていることである。夫婦別姓を求める人たちはしばしば「結婚で姓が変わるとアイデンティティーを奪われる」などと訴えるが、人の名前というのは、必ずしも戸籍名だけとはかぎらない。戸籍の重要さを強調しておいて逆のことをいうようだが、実は多くの日本人にとって、戸籍名以外にも名前を持つのは普通のことである。

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例えば芸名。国民的歌手の美空ひばりも本名(おそらく戸籍名)は「加藤和枝」だが、歴史に刻まれているのは「美空ひばり」である。文学者も三島由紀夫など多くはペンネームである。有名人だけではない。 最近はインターネットのユーチューブなどで自己PRしたり、それを職業としたりする人も多いが、戸籍名で活躍する人はまれで、名前は「ハンドルネーム」のようなものを使っている。一般の人が俳句クラブなどで雅号を使うのも珍しくない。現状でも人は戸籍名以外の名前をさまざまに使っているのだ。

 

また、現代では結婚前の旧姓を通称として職場や公式な場で使うことも広く認められているのはいうまでもない。それでも不都合が生じ、「女性の権利」の侵害が問題になることもあろうが、その時は、運用を改善すればいい。例えば、よくパスポートに戸籍の姓と通称を併記しても国際的には理解されないといわれるが、それならば通称だけにしてはどうだろうか。どうせパスポートを申請するときには戸籍謄本を提出するのだから、国もそれで本人確認ができる。大袈裟に夫婦別姓を議論する必要は全くない。

 

もちろん名前はいろいろあっても、戸籍名も必要だ。夫婦同姓も日本のよき伝統として守られるべきだと思う。よく別姓論者は、日本も明治以前は夫婦別姓だったというが、これは半分真実としても、半分は正しくない。江戸時代、公家や武士はともかく、公式には名字が認められていなかった庶民の多くも、家の名前、つまり今でいうところの「姓」を夫婦や親子で共有していた。

 

生き方も多様化している世の中である。夫婦同姓の戸籍名も、自分の使いたい名前も時と場合によって使い分ければいい。夫婦別姓にこだわって、役所に届け出る戸籍名のみにアイデンティティーを限定する必要はないのである。

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【追記】ここで論じた「姓」は厳密には「氏」というのが正しく、本来ならば「夫婦同氏」「夫婦別氏」と書くべきだが、分かりやすくするため一般的な新聞と同じ「夫婦同姓」「夫婦別姓」を使った。

 

 

筆者:高池勝彦(たかいけ・かつひこ)
弁護士。昭和17年生まれ。早稲田大第一法学部卒。弁護士登録(東京弁護士会)の後、米スタンフォード・ロー・スクール卒。専門は民事法学、労働法。現在、「新しい歴史教科書をつくる会」会長、公益財団法人「国家基本問題研究所」副理事長。78歳。

 

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2021年7月4日付産経新聞【The 考】を転載しています

 

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